戦国魂は戦国時代・戦国武将をプロデュースする企画集団です。各自治体の地域活性化や企業コラボレーション、ものづくり、観光などの支援で社会に貢献します。

twitter

HOME > コンテンツ > 風林火山コラム

Vol 5. 真田幸隆の随身

武田家には優秀な武将が多く存在したが、中でも晴信の信濃攻略において、山本勘助とともに大いに活躍した武将がいた。真田幸隆である。今回は幸隆が武田氏に随身するまでを中心に、少しご紹介しておきたい。

幸隆は永正十年(1513)、信濃小県(ちいさがた)郡の豪族・滋野一族の本家筋に当たる海野信濃守棟綱の子として生まれ、同郡の北東部に位置する山家 郷真田(長野県上田市)に住んで初めて真田氏を称したという。真偽はともかく、この「真田」の地名については次のような説がある。

「上田にかぶと石(甲石)と云ふ村あり。此の処に三田と申す田■■(不明) 此の処、真田御在城成され候に付いて、御名字に罷(まか)り成り、真田と申す由、三田と申す処を真田と申し伝へ候由」(「赤沢光永留書」)

この記録によれば、幸隆が海野氏改め真田氏を称するに当たって、本来なら「三田(さんだ)」と称すところを「さなだ」としたため、後に表記も「真田」と改めたのではないかということである。

幸隆は海野棟綱の子とされる場合が多いが、系図によっては長男とするものや二男とするもの、あるいは長男幸義の甥(つまり棟綱の孫)とするものなどもあ り、よくわかっていない。幼名は小太郎、諱は初め幸綱と名乗った。官称は弾正忠 (だんじょうのじょう)、弟に矢沢薩摩守頼綱、常田出羽守隆永ら、子に源太左衛門尉信綱・兵部丞昌輝・安房守昌幸・隠岐守信尹・宮内介高勝(金井氏)がいる。
信綱・昌輝兄弟は天正三年(1575)の長篠設楽原(したらはら)合戦において戦死したため、三男の昌幸が家督を嗣いだ。ちなみに昌幸は信之・幸村(信繁)兄弟の父である。

さて、天文十年(1541)五月十三日のこと、武田信虎は諏訪頼重・村上義清と連合して信濃小県郡へ侵入、滋野一党の拠る尾野山城(上田市)を攻めた。引き続き翌日に海野平の戦いで滋野一党を撃破すると、敗れた同党の禰津(ねづ)氏・望月氏は降伏、海野棟綱・幸隆父子は幸隆の岳父(妻の父)である羽尾幸全を頼って上野吾妻郡羽尾郷(群馬県長野原町)へと逃れた。

こうして信濃を追われた幸隆であったが、直後に武田家で異変が起こった。六月二十四日のこと、武田氏の当主信虎が、嫡子晴信によって甲斐から追放されたのである。そして晴信は幸隆の器量に目を付けていたようで、やがて雌伏していた幸隆を招いた。

ただ、その時期については
「天文十四年乙巳春、甲州武田晴信、幸隆を招き寄せ、本領を与えらる。此故に旗下に属し」(『沼田記』)、
「天文十五年丙午、幸隆上州ヨリ信州ヘ帰国有リテ、小県郡松尾城ニ居住シ玉ヒ、海野ヲ攻メテ真田弾正忠ト名付キ給フ」(『滋野世記』)
など、諸書様々で明らかではない。
最も信用のおける『高白斎記』には、天文十八年三月十四日の記録に
「七百貫の御朱印望月源三郎方へ被下候真田渡ス依田新左ヱ門請取」
とあるので、この頃までには晴信の幕下に参じたと考えられる。ちなみに『真田秘伝記』には時期の記述はないものの、「幸隆公上州箕輪に浪人にて御坐(おわ)せしを、信玄公、山本勘助に御尋ね有りて、召し寄せられ、食禄を下され、度々軍功あり」と見える。

そして、幸隆が武田家に従うと同時に、父棟綱の消息が以後途絶える。このため幸隆が密かに父を殺したのではないかともいわれているが、あながち荒唐無稽な話とも言えないようである。以下は史実として確認は出来ないが、一つの見方としてご紹介する。

当時、信濃東部〜上野西部に割拠していた滋野一族は関東管領上杉家に従っていたが、 武田信虎らの侵攻に際し、上杉憲政に対して援軍を要請したものの、ついに加勢は現れなかった。信濃を追われて上野で雌伏しつつ旧領回復の機会を窺っていた 棟綱・幸隆父子の目に、自分の父で当主の信虎を追放した若き晴信の姿がどう映ったか。棟綱・幸隆を信濃から追い出した武田氏の当主は信虎であり、信虎は棟 綱・幸隆にとって不倶戴天の仇敵である。
では、その信虎と対立して甲斐から追い出した晴信はどうか。幸隆は、晴信は明らかに逸材であると認めていた。さらに信虎とは違う一面を持つはずであり、そこに期待をかけたのである。
屈辱と引き替えに、晴信に従うことによってこそ旧領回復のチャンスがあると考えたのではないか。すでに斜陽化の兆しが見える関東管領家にいつまでもしがみついていても、晴信が当主となった武田氏討伐は難しいと判断したのである。

一方、棟綱はそうは考えなかった。あくまで自分たちを追い出した「武田氏」への報復を果たした上での旧領回復にこだわった結果、幸隆と棟綱の間には埋める ことの出来ない溝が出来、何度か激論を交わした末に、ついに幸隆は棟綱を殺害した上で晴信のもとへ参じた・・・。ちなみに、幸隆はその際羽尾ではなく、箕 輪 (上杉家の重臣・長野業正の本拠)から晴信のもとへ移ったとする記録が多い。

以上はあくまで見方の一つであるが、晴信は幕下に参じた幸隆を手厚く迎えた。晴信は、自分と同じく父子の対立を経験した幸隆に同情する部分があったのか もしれない。やがて幸隆は大きな戦果を挙げて悲願の旧領回復を果たすのだが、その「戦果」である天文二十年五月の戸石城攻略については稿を改めてご紹介す る。

しかし時代の流れは容赦なく押し寄せ、後の永禄六年(1563)十月十四日、幸隆は晴信の将として出陣、上杉方斎藤憲広の拠る上野岩櫃(いわびつ)城(群馬県東吾妻町)を攻め落とした際、岳父でかつて苦境を救ってくれた羽尾幸全を討ち取っている。幸隆の心中はどのようなものだったのであろうか。

by Masa

 

▲ページトップへ