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Vol 12. 第四次川中島の戦い(後編)

(前回の続き)

信玄備を立て直し給ふ事。

伝に云ふ。勘介入道御前に畏(かしこま)る。信玄宣ひけるは、「いかに入道。敵の備は車懸りとみゆるぞ。汝急ぎ馳せ向ひて、此の備へを留めよ。某もくり替りなん。先陣の者共にも使数多遣して、此の道理を知らせなん。心得たるか」と宜ふ。勘介畏りて、敵の来り路を遠近を積り、己が備を押し出し、我が身は先陣に乗り付けて、「しかじかの仰にて侯。各々はや兵を動かし、敵の影を招き給へ」と 云ひ聞かせて、頓(やが)て己が備へに帰り、四丁斗り張り出し、七十五人の足軽、三十人の与力の士、一面に立たせ、手勢は丸く成りて、其の跡に備へて己は 馬に乗りながら、河原表を馳せ廻り、敵の色を打ち見て、頓て馬より飛んで下り、采拝を取りて、兼ねて教へ置きし拍子木をはらはらと打ちければ、一声々々揚 るとひとしく、七十五人の足軽、図の如くニ段に成りて替る々々くり出し、■子[■=革へんに非→拍子木のこと]にて拍子を取りて、声に合はせて進みけり。

扨(さて)又典厩(てんきゅう=武田信繁のこと)は、敵の備への勢をみて、唯一騎旗本へ乗来りて申されけるは、「敵差しかけて来り侯に、某備へ所は、余り に遠く侯間、御免し侯はゞ、只今の間に張出し、謙信と直戦仕り度く侯」と也。

信玄「尤に候。其の旨に任せられ候へ」と也。之に依つて典厩の備へ、横筋違へに押し出し給ふに、勘介入道が張出して備を立つる時節也ければ、是と一所に成りて、同拍子に進まれたり。典厩の御志、忠節類少しとて、其の頃の名将達、感じ給ひし事隠れなし。信玄は此の間に本陣を一丁余り繰出し、敵の差しかゝるべぎ道筋を開きて、立替り、牀机に居給ふ。此の故に謙信の御目当て相違するのみに非ず。味方の勢も本陣の進むをみて、弥々(いよいよ)色を直しけり。

扨又諸角は、典厩の備の動くをみて、郎従共に向つて申しけるは、昨目勘介と云ひかわしたる詞も有がたく、止み難き所ぞとて、備を押出しけるに、是は道筋近 かりければ、頓て典厩に押しつゞき、二の手の様に備へたり。

謙信方には、甘糟近江、千の備へを、遥か後に立て、直江(実綱)二千に小荷駄奉行を申付け、残る一万の兵を以て、伝に曰ふ。甘糟は最初筑間(千曲川)を渡り、雨宮に備へて諸兵を渡し畢つて、謙信軍をくり出し、直江が陣をはこび行く跡に付いて備へを進めけれ共、廿丁余も後に有りしと也。(下略)

柿崎と云ふ士大将を先手として、二の手輝虎指しつゞき、旗をひそめて無二無三に懸り、一手切りに合戦を始むる其の問に、謙信の旗本にて信玄の右の方へ廻 りて、義信の旗本五十騎、雑兵四百余の備を切りたて、信玄の備ヘヘ直戦して、両勢三千六七百人、入乱れ、切りつ切られつ、突きつ突かれつ、首を取るも書き とらるゝも有り。諸卒手前に取紛れて、主従父子を忘れたる事、敵味方同前なり。

伝に曰ふ。長尾は陣を繰り並べて、直江が人夫の過半、才川に着きぬと覚しき時、弥々もみ寄せてみれば、早や勘介入道・典厩・諸角三頭にて張り出し、足軽を かけ、鉄炮を打ち立て、曳(えい)声にて寄せ来る。長尾下知して曰(もう)すは「究竟の時節成るぞ。某を手本にして一手切りに切って懸り、敵をもみ破れ」と呼ばはつて、会釈もなく出で来る。常に長尾は我が陣に二の手を添ふる事なきに、今日は思慮深くして柿崎を添へたれば、是を一手の様になして、真黒に成り押し寄せたり。我が馬印は甘糟が備に残し、甘糟が旗は我が陣に交へたるが、此の時下知し給ひけるは、「惣旗をうつぶけよ。手詰めの勝負に旗のもめんは思ひの外僻事共有る者ぞ。河原風強ければ、直に立てん事成り難し。うつぶけたるは勢も強き物ぞ」と也。(此の故にや、武田にて敵の旗の数に心を付けざりとぞ聞こえし)

扨小馬印押し立てさせ、敵合近く成りければ、朱采拝おつ取つて、「いかに面々。ヶ様(かよう)に矢道の烈しき時は、甲を傾けよ。鎧の袖をかさせ、敵の方をみる事勿れ。蹈(あぶみ)へ懸りに進むべし。曳声を静かに懸けよ」と勇みかゝつて出で来る。然るに柿崎は謙信に越されじと真先にかけ来る処を、山県三郎兵衛横筋違ひに押し出しけるに、端なく出合ひ、互に一息の会釈もなく、はたと合ひて突き合ひけるが、柿崎が軍、半分は破れて三丁斗り敗してけり。
柿崎は夫(それ)にも構はず、脇をも見ず、真一文字に勘介が備ヘヘかけ付けたり。長尾もやがてかけ付けて、透間もなく突いてかゝる。勘介入道は「是れ社(こそ)望む所よ」とて、真先に懸けて、かけ合はせ、爰(ここ)を最期と戦ふたり。勘介が手勢并びに与力足軽迄、入道に後れじと、をもひをもひ(思い思い)しころを傾け、声を発し、命を限りに戦ふたり。

典厩は、けふぞ討死と思ひ定め給ひければ、信玄へ使を遣し「御覧の如くに候。謙信をば其等受け留めて候。穴賢(あなかしこ=恐れ入りますが)、某等を御救ひの御覚悟有るべからず候。此の間に御勝を心懸けられ候へ」と也。其の身には母衣を台にあげ、しさり口にうち乗つて、士卒に向って曰く、「長尾と見ば、組んで差違へよ。葉武者を討つて罪作るな。帰命八幡太神、今日の軍、長尾と参会させてたべ。唯今こそ討死して、父兄の恩を報じ候物也」と大音上げて罵りながら、会釈もなく駈け入りて、火を散らして戦つたり。さしも越後勢も開きなびきてみへにけり。

互に討たるこゝ者数を知らず。此の間に越後勢は上田・本庄・野尻・関川の者共を始め欠け付け々々竪に合はせ、横に入りて我劣らじと闘ふに、長尾を討たせじと、一入(ひとしお=一層)精を出しけり。柿崎衆も取って返し、面もふらず伐(き)り会ひける。

さのみはいかで怺(こら)ふべき、勘介も典厩も、伐り死にし給ひぬ。

又諸角は内藤修理・望月甚八一つに成りて、爰を晴れと戦ひしが、余りに急なる軍にて、互に味方を見合はすべき隙は、敵味方共になかりしが、「勘介殿只今討 死し給ひぬ」と、郎従共の告げたりけれぱ、「いかなる故にや有りけん。扨は迯(のが)れぬ所ぞ」とて、敵の中へかけ入りかけ入り戦ひて終に討死せしと也。

此の間、信玄は心静かに押出して、備を立て、牀机に居り給ふとぞ聞こへし。

然るに謙信は、此の軍をば柿崎にとらするぞと罵りて、爰をば打ち捨て、引違へて信玄の陣へ透間もなく出で来る。太郎義信是をみて、父を討たせては叶ふまじと、四百五十騎を備へ、信玄より先へ張り出し、短兵急にかけ付けて、無対に長尾が陣へ面も振らず割つて入り、爰を先途と責め戦ふ。初鹿野源五郎供し侯へけるが、かけ塞つて討死しぬ。

信玄は是をみて、「義信討たすな、小勢なるぞ続けや」
と宣ひければ、旗本の若者共、義信を肋けんと駈け入り駈け入り戦ひける程に、信玄の牀机所は、人少なにぞ成にける。

敵には村上・北条・長尾右衛門・宇佐美駿河を初めとして、高梨・上田政景等、謙信を引き包み、爰を晴れとぞ闘ひける。敵味方共に主従を忘れ、父子を離れて 唯切り死とぞみへにける。然れ共、越後勢次第にかさみ来て、二千斗り竪横に入り替りけるに、味方は僅か六七百、入れ替ふる兵もなかりしかば、義信終に討ち負けて、四丁斗りぞ敗し給ふ。

謙信は義信の敗するをも捨てて、又差し越えて信玄の牀机所へ、真一文字にかけ来る。又信玄は義信の危きをみて、我が陣の兵を追々に遣したる折節にて、纔(わずか)党の者、二十人、其の外の兵二三十人斗りにて扣(ひか)へたる所なれば、防ぐべき隙もなかりしに、謙信差懸りて、乗り付け、直戦し給ひければ、互に危うき事共也。(中略)

内藤修理・山県三郎兵衛・穴山伊豆、此の三備へは敵を追ひ、其の外の九頭は、先がけ破られて、広瀬迄追ひ討ちに逢ひしとなり。

然るに、萌黄の胴肩衣に白布にて鉢巻きし、月毛の馬に乗りたる武者、三尺余の刀を抜き持ち、信玄の牀机の前へ一文字に乗り付け、伐ってかゝる。信玄軍配団扇にて受け流し給ふ。団扇に八刀瑕有りしと也。御中間頭・廿人衆頭とて、二十騎の党の者、信玄をつゝみ、寄る者を切り払ふ。中にも御中間頭原大隅、鑓を以て萌黄武者を突き外して、綿噛をたゝく。夫も外れて馬の三頭(さんず=尻)に中る。彼が馬さう立つて走り出でて遠く成りぬ。後聞けば輝虎也。

伝に曰ふ。謙信直に伐つて懸る。信玄牀机に在りながら、団扇にて受け流す。

然るに廿人の党の者、強力にては有り、寄来りし敵をつかみ倒し衝き倒し、汗水に成りて防ぎけり。其の中に原大隅、大音にて、「後より義信助け給ふぞ。真田・飯富・小山田が助けたるぞ」と罵りけるに、さしもの越後勢、是に気を奪はれて、しらけたる所を、党の者弥々募りて防ぎける。其の間に義信来りて、右に記すが如く、大水に成つて駈け入り駈け入り戦ひ給へば、謙信終に敗し給ふ。
(大隅が武略類なしとて、其の日御加恩有りしと也。廿人の党の者とは、常は二十人衆頭・御中間頭と号して、軍の時傍を離れぬ強力の勇士也。たとへば義貞(新田)の十六騎の党、正成(楠木)が廿八騎の党の如し。又団扇に八つの刀の跡ある事は、皆打ちかすりたる跡斗りと云へり。実にも馬上と牀机の事なれば、左も有るべき事なり)

然れば山県三郎兵衛手にて柿崎を追ひ散らし、三丁程追ひ討ちにする。信玄は猶も牀机に居給ふ。其の外九頭は悉く敗軍して(内藤を除きてなり)広瀬の渡迄追ひ討ちに討たれぬ。

義信を始め、しさり給ふ。 典厩・諸角・初鹿野討死、信玄・義信各ニケ所づつ手負ひ給ふ。

斯くて此の合戦、信玄公の御負けとみゆる所に、先衆十頭、謙信に出し抜かれ、我が意地増に千曲川をこし、越後勢の跡より合戦を初め、追ひ討ちする。

伝に曰ふ。かゝる所に、先衆十頭の内、跡に備へたる小幡・芦田・真田・郡内の小山田を初め、すは中島にて合戦有りとて、或は広瀬を渡るも有り、又は川上を渡るも有り、瀬もなき処へ馬を打ちひたし渡すも有りて、我先にと争ひ越え、無二無三に伐りて懸りければ、長尾が兵共、今朝より遠駈けし、其の上戦にも骨を 折り、大旨は手負ひければ、身心共に自由ならざる所へ、川を越えたる勢鬼神の如くにして信玄の大籠少しもゆるがず有りけるをカにして、旁々懸けつけて、面もふらず突き散らし、迫ひ詰め々々討ち取りける。或は迯るゝ敵を追ふもあり。河原一偏の乱戦とぞ成りにける。此の間に山県も来りて戦ひければ、越後勢終に 討ち負けて、右往左往に追ひちらされ、討たるゝ者数を知らず。討ち残されたる者共は、才川をも渡り得ず、中島の五里三里に好みを尋ねて暫く身を隠し、一命を助かりけるとぞ聞へし。

甲州先陣の諸将下知して、高名有らん者は直に信玄公の御前へ持参せよと郎従共に云ひし程に、手をふさぎたる者共は、程なく本陣に集りて、数千の備となり給ふ。

斬首三千百十七級  味方討死四千五百余人

長尾は和田喜兵衛と申す士一人にて、高梨山へかゝり退き給ふ。後聞けば、春日山へ着くと等しく、喜兵衛を手討ちにせらるゝと云ふ事。

伝に曰ふ。喜兵衛手討ちの事、甲州の取沙汰にて、虚説也。喜兵衛春日山へ着くとひとしく、余りに精力を尽しける故にや有りけん。夥敷く吐血して死にぬ。

謙信馬より下り、「穴不便哉」と宣ひて、手づから薬を取出し、口中へわり入れ給ひしか共、終に弱りて死に失せぬ。謙信、和田が子を一七日過ぎて呼出し、 二増倍の加増にて喜兵衛が忠を感じ、涙を流し給ひしと也。右手討ちのさたは、其の場の吐血の跡をみて、不審したる者も有りしが、夫故のそら事成るべし。扨又謙信御供の士卒なかりし事は、本書に主君のいづくにおはしますも知らざる事敵味方同前也と書きたるにて、御行衛(ゆくえ=行方)の知れざりしは聞へし也。左も有りぬべき事也。

by Masa

 

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