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Vol 3. 激戦!姉川の戦い


 

信長の撤退

予期せぬ浅井長政の寝返りにより、あわや袋の鼠となるところを電光石火の退陣で切り抜け、何とか無事に京都に帰り着いた織田信長は、五月九日には京を発ち岐阜へと戻るが、途中千草越えの難所椋木峠で六角氏の放った刺客・杉谷善住坊に鉄砲で狙撃された。幸い弾丸は体をかすっただけで大事には至らなかったが、信長は下手人の探索より岐阜へ一刻も早く戻ることを優先している。ちなみに杉谷善住坊は甲賀五十三家の一つ・杉谷家の当主与藤次の子とされるが、伊勢杉谷(三重県菰野町)の住人とするものもあり、「飛ぶ鳥も射落とす」と言われた鉄砲の名人として知られていた。善住坊は直ちにその場を逃走したが、三年後に近江高島郡内に潜伏していたところを磯野員昌の手によって捕らえられ、信長のもとへ送られた善住坊は、土中に埋められ首を鋸(のこぎり)で引き切られるという極刑に処されている。

何とか岐阜へたどり着いた信長は急ぎ兵を整えた。六月十九日、信長は徳川家康にも再度加勢を依頼して岐阜を出陣、二十一日には長政の本拠・小谷城へ迫り、城の南西約2km弱にある虎御前山に布陣した。

この間の六月四日には長光寺城(滋賀県近江八幡市)の守将・柴田勝家が、永原城(同野洲市)の佐久間信盛とともに野洲川に布陣していた六角勢へ攻撃を掛け撃破しているが、勝家は城内に残る水瓶を悉くたたき割った後に討って出、見事に六角勢を撃退したという。ちなみに勝家は、この戦いの勝利によって「瓶割り柴田」の異名を取った。

 


「江州の猛将磯野丹波が正面とは・・・」さすが
の秀吉様も今回は弱気になっておいでじゃ。

姉川の合戦 序章

二十三日になって信長は横山城(同長浜市)の北・龍ヶ鼻に本陣を移し、横山城を包囲した。これを見た長政は二十五日に動き大寄山に布陣、翌日には越前からの援軍・朝倉景健が合流した。
信長方では二十七日に家康が到着、次第に戦機が熟してくる。夜になって浅井・朝倉勢は、浅井勢は野村、朝倉勢は三田村へと軍を進めた。これが、姉川合戦が「野村合戦」または「三田村合戦」とも呼ばれる所以(ゆえん)である。  
浅井・朝倉勢の動きを察知した信長は決戦に向けて攻撃の部署を定めたが、山内一豊の属す木下秀吉隊の兵数は三千、三番隊であった。
二十八日未明、信長は諸隊に前進を命じ、浅井・朝倉勢と姉川を挟んで対峙した。

 


現在の姉川、奥には伊吹山系が、写真右の右奥が信長の本陣付近である。

 

 

織田軍崩壊の危機

戦いの火蓋は朝倉勢によって切られた。徳川勢に対峙した朝倉景紀・前波新八郎らが徳川勢に攻め掛かると、徳川勢の一・二番隊である酒井忠次・小笠原長忠が応じ、ここに姉川合戦の幕が切って落とされたのである。  
初めは数に勝る朝倉勢が優勢で酒井・小笠原隊はじりじりと後退するが、石川数正隊が奮戦して盛り返し激戦となった。これを遠望した浅井勢も、朝倉に後れを取るなとばかりに奮い立ち、先鋒・磯野丹波守員昌が織田勢に突っ込んでいった。磯野隊は凄まじい勢いで襲いかかり、信長の先鋒・坂井政尚はあっという間に壊滅してしまった。 その際、政尚の嫡子で十六歳になる若武者・久蔵が取って返し、ついに戦死するという出来事があったが、『信長記』はその様子を以下のように伝えている。

「磯野勝に乗って、猶(なお)鬨(とき)を作りかけ、敵味方入乱れ、追つ返しつ戦ひけるが難なく右近(政尚)撞(つき)退く。坂井が一族同名のものども、口惜くや思ひけん、百餘騎引き返し枕を並べ討死し、残り少なになりければ、猶叶はずして引退かんとしけるに、嫡子坂井久蔵いまだ十六歳、容顔美麗人に勝れ、心も優にやさかりつるが、引返し、向ふ敵に渡し合せ切つ切られつ追靡(なび)け、暫く戦ひけるが、遂に討たれて失せにけり。郎党可児彦右衛門の尉、坂井喜八郎抔(など)も枕を並べて討死す。父の右近は、夢ばかりも之を知らずして退きたりけり」

 


姉川合戦跡に立つ陣立ての案内板(陣立に関しては諸説あり)

 


姉川合戦の陣没者碑

 

三河の意地・朝倉の意地

磯野隊は勝ちに乗じて益々勢いに乗り、織田勢を次々と粉砕した。 秀吉隊も蹴散らされ、磯野はあと一歩で信長本陣というところまで迫る が、そこで戦線に異変が起きた。激戦の中、家康は榊原康政に命じて朝倉勢の側面を衝かせるが、これが見事に成功、動揺した朝倉勢を一気に押し返したのである。

やがて朝倉勢は敗走することになるが、その中にあって一際光彩を放った豪傑がいた。名を真柄十郎左衛門直隆という。真柄氏は越前真柄荘(福井県武生市)を本拠とする国人衆で、古くからの朝倉氏の被官であった。直隆は一名を直元とも言い、大力無双の豪傑として知られていた。戦いの際には越前の刀匠千代鶴の作による五尺二寸もの自慢の大刀「太郎太刀(千代鶴太郎)」を振り回して暴れ回ったという(異説あり)。

彼は息子の隆基とともに従軍、直隆は大太刀を振り回して徳川勢と戦っていたが、さすがに疲れが見えだした頃、徳川方の三人の兄弟武者が立ちはだかった。長兄を向坂式部という。直隆は三人を相手にして奮闘するが、向坂兄弟は力を合わせて戦い、いずれも傷つきながらもついに直隆を討ち取った。子の隆基もまた青木一重に討たれたという。(異説あり)

 

敗軍の猛将

徳川勢の奮戦で朝倉勢が敗走すると、浅井勢にも動揺が走った。その機会を捉えて、今度は稲葉通朝(一鉄)が浅井勢の側面を衝くと信長も正面から押し返し、さらに氏家卜全・安藤守就も側面へ回って攻撃した。浅井勢はあと一歩まで押し詰めながら三方から攻撃を受けて敗走に転じ、磯野は重囲を突破して居城の佐和山城(同彦根市)へと戻っていった。そして、今度は浅井勢の中で小さなドラマが起こる。

浅井家には、竹中半兵衛の弟・ 久作(重隆) が、
「彼は聞ゆる剛の者にて、力あくまですぐれたり」 と評した猛将・遠藤喜右衛門直経がいた。総崩れとなった浅井勢の長政本隊にいた直経は、戦前から「戦に敗れたときには、もはや生きては帰るまい。叶わずとも信長にひと太刀つけてやる」と公言していたが、その言葉通りの行動をとる。

直経は疲労困憊していたが、戦死した僚友・ 三田村市左衛門の首を刀の先に突き刺して織田勢に紛れ込み、「殿はいずこにおわす、いざ首実検を」と叫びながら信長の本陣へ向かった。手柄を誇るふりをして信長に近づき、一命を捨てて斬りかかろうとしたのである。 しかし控えていた竹中久作に見破られ、組み敷かれて遂に討たれて首を取られた。
たとえ彼が力を余していたとしても、信長に斬りつけることは難しかったであろう。しかし、一途な彼は自己の命を省みず、果敢にこの挙に出たのである。

こうして信長は大勝を得たが、勢いに乗って小谷城を攻めることはせず、まず横山城を包囲した。守将の大野木が開城して小谷城へ去ると、信長は木下秀吉と竹中半兵衛重治を入れて守らせた。しかし信長にとっては一難去ってまた一難、七月末になって今度は三好三人衆が摂津で挙兵、信長も天王寺から天満ノ森へと軍を進める。

そして三好勢と対峙していた九月十二日、信長にとって最大の難敵が出現した。本願寺が信長に対して宣戦布告したのである。ここに世に言う「石山合戦」が開始された。

 

比叡山攻めの真相

さて、放映では「仏法の敵」なるタイトルで信長の比叡山焼き討ちを採り上げているのだが、これは原作では触れられていない。 信長が比叡山焼き討ちを行ったのは元亀二年(1571)九月十二日のことである。信長が比叡山に籠もる敵に対し、僧俗・老若男女を問わず皆殺しにしたのは事実だが、実は信長にこの暴挙をさせた理由の一端が、比叡山側にもあったのである。 というのも、事件の起こる前年三月、奈良興福寺の学僧で同寺塔頭(たっちゅう)多聞院の主・英俊が比叡山を訪れた記録があるのだが、その内容が実に興味深いのでご覧頂きたい。

「(略) 灯明二・三灯如形在之、堂モ坊舎モ一圓ハテキレタル躰也、浅猿〃〃 、僧衆ハ大旨坂本に下テ乱行不法無限、修学廃怠ノ故如此、一山相果式也ト各々語之、諸寺併此式也、可悲〃〃、(中略) 山王廿一社拝見、社壇ノ結構驚目、雖然参詣ノ人モ希ニ、社人・社僧も不見、神サヒタル躰也」(『多聞院日記』永禄十三年三月十九日条)
(大意:灯明は二・三が形ばかりにあるだけで、堂屋も坊舎も皆荒れ果てている。浅ましいことだ。大半の僧衆は坂本に下りて行って乱行不法の限りを尽くしているが、修行を怠っているのでこんなことになるのである。比叡山全体が荒れ果てていると皆が語っていた。諸寺も同じ有様で、悲しむべきことである。(中略)山王二十一社を拝見したが、その立派なことは驚くばかりだ。しかし参詣に訪れる人も滅多になく、社人・社僧も見あたらず、寂れた様子であった。)

 

織田軍の転戦と叡山攻め

 

前年(元亀元年)の九月十二日に石山本願寺が挙兵して以来、信長は窮地にあった。十六日には本願寺に呼応して浅井長政・朝倉義景が三万の軍を率いて近江坂本に出陣、十九日に森可成の守る近江宇佐山城(滋賀県大津市)を攻撃した。この戦いで可成と織田信治が討死しており、信長は対峙中の三好方摂津野田・福島砦の囲みを解き撤兵、坂本に向かった。

加えて十一月には伊勢長島の一向一揆が本願寺顕如の指令を受け蜂起、信長の弟・織田信興が守る尾張小木江城(愛知県愛西市)を攻め、信興を自刃させている。信長は絶体絶命とも言えるピンチを、何とか天皇の綸旨を得て三好三人衆・本願寺とも併せて和議に持ち込むことで脱し、瀬田に軍を引いた。この和議成立により、 十二月には浅井・朝倉軍が比叡山を降り撤兵している。

元亀二年が明けて早々、信長は木下秀吉に命じ、越前より摂津に往還する諸商人の近江姉川・朝妻間の通行を禁止させる一方、佐和山城の磯野員昌を調略させた。その結果、二月二十四日に磯野員昌は秀吉を通じて信長に降伏、居城の佐和山城を明け渡し高島郡に移った。姉川の戦いで信長を大いに苦しめた猛将は、ついに信長に降ったのである。

五月になると、信長は長島一向一揆討伐のため五万の大軍を率いて尾張津島へと出陣するが、この戦いで氏家ト全が戦死、柴田勝家が負傷している。

八月になると信長は小谷城を攻撃する一方、近江志村城・小川城を降伏開城させ、九月三日には安土常楽寺に陣を進めて六角旧臣・川那辺秀政指揮する一向一揆を撃破、瀬田へ入った。この時点で既に比叡山攻撃を決意していたものと思われる。

比叡山は先に浅井・朝倉寄りの姿勢を示していたこともあり、加えて広大な寺域には数万の軍勢を駐屯させることが可能であった。かつての「王城の鎮守」という表看板が廃れ、破戒坊主が乱行を繰り返す比叡山の存在自体が、信長にとっては目障りというより脅威だったのである。

信長は九月十一日に山岡景猶の城で軍議を行い、一部の反対を押し切って比叡山東麓を二万五千とも三万ともいう大軍で取り巻いた。その際、佐久間信盛と武井夕庵が暴挙を諫めたが、信長は厳しく反論して焼き討ちを決定したという。

翌十二日早朝、信長は全軍に総攻撃の号令を下した。   信長勢は放火しつつ比叡山に攻め上り、一堂一宇余さず焼き払った上に僧俗・老若男女の区別なく数千人を虐殺する。秀吉は軍勢の半分を割いて西教寺浦を固め、小舟で琵琶湖へ脱出しようとする者を捕らえたという。 翌朝、信長は明智光秀を坂本城に入れ、供回りとともに上洛している。

by Masa

 


 

 

姉川の合戦場を抜ける北国脇往環(ほっこくわきおうかん)を進むと木之本(きのもと)へ着きます。昔ながらの風情が漂う街道で、姉川を訪れた後はここで一服したいものです。

Googleマップの衛星写真に勢力図を重ねてみました。織田方は12段とも13段とも言われる布陣をしたと伝えられていますが、この図を見ると信長本陣から姉川まで約1kmもありません。陣立案内板のような陣立だと2、3万を越す軍勢を配置するとかなりの混み具合です。資料によれば木下隊は3番手磯野隊が渡河して攻めて来た事になるので、大河ドラマにあるように一豊殿が溺れることは無かったでしょうね^^;

大軍の利点を生かすという観点からみると、例えば朝倉方の横槍を警戒し周囲へ分散配置してたとか横山城との後詰を警戒していたとか考えられるかもしれませんね。徳川時代に入ると自分の爺さんは姉川で戦死した○○というもので・・・と箔をつける戦いになったらしいです。 (孫一郎 談)

 

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