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戦国魂 今日の出来事

■【二条城の会見】慶長十六年(1611)3月28日

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豊臣秀頼が加藤清正・浅野幸長らと共に徳川家康を二条城に訪ねて会見する。

 慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康は東軍の総帥として美濃関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍諸将を破り、同八年二月には右大臣・征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開き、事実上の天下人となりました。ここに豊臣家(秀頼)は形の上では徳川政権下の一大名となり、従来と立場が逆転することになります。豊臣家から見れば家康の行動は先君秀吉の遺命に背くもので、人情的にも到底許し難いものであったでしょう。しかし家康はあの手この手で豊臣家の懐柔を図りました。

 同年七月には三男秀忠の娘で七歳になる千姫を十一歳の秀頼の妻としますが、これは秀吉の生前にしていた約束を果たしたもので、とりあえず秀頼の母・淀殿は胸をなで下ろしたことでしょう。豊臣家からすれば、千姫はある意味人質となりうるからです。家康は引き続いて翌年八月には豊国大明神の臨時祭に協力していますが、将軍となった家康にとっては、豊臣家が徳川政権下の一大名たる存在となったことを、自ら認めてくれさえすればそれで良かったのです。

 同十年四月、家康は秀忠に将軍職を譲り、秀忠が江戸幕府二代将軍となりました。淀殿にしてみれば、秀頼が成人すれば政権は豊臣家に返されるものと思っていたかもしれません。家康は秀忠の将軍位就任に際して秀頼の上洛を求めますが、淀殿はこれをきっぱり拒否しました。家康はこの時点でいずれ大坂討伐をと考えたのでしょう。諸大名にも不安と緊張した空気が流れ始めます。

 それから六年、この日ようやく秀頼は上洛、加藤清正・浅野幸長らとともに徳川家康を二条城(京都市中京区)に訪ねて会見しました。これにより徳川と豊臣の地位が逆転したことが天下に知れ、家康の望みは達せられましたが、後の歴史から見て秀頼の上洛は遅きに失していたようです。

 四年後、豊臣家は滅亡を迎えることになります。