戦国魂は戦国時代・戦国武将をプロデュースする企画集団です。各自治体の地域活性化や企業コラボレーション、ものづくり、観光などの支援で社会に貢献します。

twitter

HOME > コンテンツ > 今日の出来事PLUS

戦国魂 今日の出来事

■【南都対陣始まる】永禄十年(1567)4月18日

twitterでつぶやく

松永久秀と三好三人衆らの南都対陣が始まる。

 「南都対陣」とは永禄十年(1567)のこの日以降、奈良を舞台に繰り広げられた、松永久秀と三好三人衆(三好政康・三好長逸・石成友通)らの戦いのことを言います。久秀は同二年八月に大和へ侵入しますが、これは三好長慶の意を受けたものでした。久秀は筒井氏を追い出して大和の国中(くんなか=北部の平野部)を掌握すると新たに多聞山城(奈良市)を築き、信貴山城(奈良県平群町)と併用して大和の二元支配を行いました。

 三人衆と久秀は、三好長慶の没後しばらくは友好関係にありました。しかし次第に対立するようになり、同八年十一月十五日、三人衆は河内飯盛城(大阪府四條畷市)を攻め、長慶の後を嗣いだ義継を抱き込んで久秀と関係を絶ちました。さらに三人衆は筒井順慶(当時藤勝)と同盟して久秀と対峙、以後小競り合いが幾度か繰り返されます。そんな中、この年の二月になって義継と三人衆の関係が悪化、義継は堺にいる久秀を頼りました。四月十一日、久秀が義継とともに多聞山城へ入ると、この日三人衆は一万余りの軍勢を率いて奈良近辺に陣取り、ここに両者の南都対陣が開始されました。

 南都には興福寺・東大寺という大寺院があり、数多くの塔頭(たっちゅう)が存在していましたが、この戦いで多くの堂宇が焼失、十月十日には東大寺の大仏殿までもが炎上焼失するという異常事態に発展します。大仏殿炎上の経緯については様々な説がありますが、

「(前略) 東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三つなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申者なりと申されしに、松永汗をながして赤面せり」(『常山紀談』)

「東大寺を焚大仏ヲ滅モ十月十日也」(『佐久間軍記』)

と見えるように、一般的には松永久秀が焼いたとするものが多いようです。

 しかし興福寺の資料『多聞院日記』では、

「一 今夜子之初點より、大佛ノ陣ヘ多聞山より打入合戰及數度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊ヘ次第ニ火付テ、丑剋ニ大佛殿忽焼了、猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了」

と見え、どうやら久秀が意図的に焼いたのではなく、三好方で起きた不慮の事故によるものとみられます。

 程なく三人衆は飯盛城に入り、半年に及んだ南都での戦乱はひとまず収まりました。ちなみに焼け落ちた東大寺の大仏は、筒井順慶の重臣・山田道安が修復したと伝えられています。