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戦国魂 今日の出来事

■【賎ヶ岳の戦い】天正十一年(1583)4月21日

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北近江賎ヶ岳で羽柴秀吉が柴田勝家と戦い、これを破る。

 本能寺の変後、秀吉は清洲会議(織田家の家督会議)において信長の嫡孫・三法師(のち秀信)擁立を主張、丹羽長秀らの支持も取り付けて望み通りの結果を得ましたが、これにより三男信孝を支持して敗れた柴田勝家との対立は決定的なものとなりました。

 続いて秀吉は信長の葬儀を主催する一方で織田家臣の取り込みを図り、着々と足場を固めていきました。勝家は秀吉が主家簒奪を企んでいると判断、友将佐々成政を始め土佐の長宗我部氏や紀伊の雑賀衆などとも連絡を取り、秀吉との決戦に向けて動き出しました。

 十二月になって秀吉は、突如として大軍で長浜城(滋賀県長浜市)を囲み守将の柴田勝豊を降伏させると、岐阜城(岐阜市)の信孝をも圧して降伏させます。これは勝家が雪で出陣できないことを見越した上での行動でした。

 この年の三月、秀吉の動きを座視できなくなった勝家は、ついに兵を挙げ北ノ庄城を出陣、十二日に北近江柳ヶ瀬に到着し本陣を内中尾山に置きました。対する秀吉も同日長浜城に入り、全軍を十四段に分け柴田勢と対峙、十八日には本陣を木之本に進めました。

 両軍が膠着状態となる中、先に降伏した信孝が勝家に応じて反旗を翻したため、秀吉は一旦岐阜城へと向かいますが、折からの大雨で木曽川が渡れず大垣城(岐阜県大垣市)で待機中、この日の早暁に事態が動きました。勝家の先鋒・佐久間盛政が強引に勝家の許可を取りつけて秀吉方の大岩山砦を攻撃、奪取したのです。勝家は盛政に直ちに引き上げるよう命令しますが、さらなる戦果を求める盛政は耳を貸さず、大岩山に居座りました。

 急報に接した秀吉は、またもや神速の行軍で兵を返しました。盛政は秀吉の帰陣は早くても翌朝と計算していましたが、夜に入って夥しい松明が木之本付近に動くのを見て驚愕、急ぎ撤退を開始します。しかし時すでに遅く、秀吉は全軍を上げて総攻撃をかけ、ここに大激戦が展開されました。盛政は奮戦して持ちこたえますが、その時前田利家が突如として陣を払ったため柴田勢は総崩れとなり、勝家はかろうじて北ノ庄城に逃げ戻りました。

 この戦いで活躍した秀吉方の糟屋武則・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・福島正則・脇坂安治の七人が、世に「賤ヶ岳七本槍」として知られています。