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戦国魂 今日の出来事

■【細川藤孝誕生】天文三年(1534)4月22日

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細川藤孝が京都東山・岡崎に生まれる。父は三淵晴員。

 細川藤孝はこの日、三淵晴員の二男として京都東山・岡崎(京都市左京区)に生まれました。母は清原宣賢の女で、一説に将軍足利義晴の側室でしたが、晴員に下賜された際には既に身ごもっていたとされます。これが真実ならば、藤孝は義晴の落胤ということになります。幼名は万吉、六歳の時に義晴の命により和泉上守護家・細川播磨守元常の養子となりました。万吉は同十五年十二月に元服、義晴の嫡男で同年に元服していた義藤(のち義輝)の偏諱を受け藤孝と名乗り、通称を与一郎と定めました。

 藤孝は戦国時代屈指の文化人大名として知られますが、一つ興味深いエピソードがありますのでご紹介します。

 藤孝は初め、歌道は公家や女子供のするもので、武士たる者が嗜むものではないといって興味を示しませんでしたが、ある戦いをきっかけにそれが変わります。その戦いの際、藤孝は敵を追っていましたが、追い捨てにして帰ろうとしました。すると、供の侍が藤孝の馬の口を押さえて「もう少し追ってみられてはどうですか」と言いました。藤孝が「人馬ともに疲れていて、追いつくのは難しい。もう既に遠く離れている頃だろう」と答えると、その侍は歌の心をもって思慮し、こう言いました。

 「『君はまだ遠くは行かじ我が袖の 涙も未だ冷かならでは』という古い歌がございます。敵の乗り捨てた馬を撫でてみたところ、まだ温かさが残っております。さほど遠く離れてはいないでしょう」

 藤孝は「面白い」と言って馬を引き返し、敵を追いました。すると供侍の言う通り程なく追いつき、見事生け捕りにすることに成功しました。この後藤孝は歌道を好み、ついに達人の域に達したということです。

 諸芸に秀でた藤孝は足利将軍家から織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時代の流れに逆らわず仕え、どの主君からも信頼され重宝されています。