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戦国魂 今日の出来事

■【柴田勝家自刃】天正十一年(1583)4月24日

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羽柴秀吉により本拠北ノ庄城に追いつめられた柴田勝家が城に放火して自害。享年62歳か(他に57歳・58歳説あり)。

 織田信長の筆頭家老として知られる柴田勝家ですが、意外なことにその出自や幼年期のことはよくわかっていません。一説に尾張上社村(名古屋市名東区)の出自とされ、通称は権六(郎)、のち修理亮(しゅりのすけ)を称します。父は土佐守某といわれますが、誕生年も大永二年(1522)・六年・七年等の説があり、現時点では不明なようです。

 勝家は初め織田信秀に仕え、信長の弟・信勝(信行)に付けられました。天文二十一年(1552)八月に清洲織田家の家老・坂井大膳が信長に反旗を翻すと信長に加勢して出陣、萱津の戦いで坂井甚介を討つ戦功を挙げるなど、この頃から記録に現れてきます。

 ところが弘治二年(1556)八月、勝家は林秀貞とともに信勝擁立を策し、信長と戦うことになります。稲生の戦いで信長に敗れた勝家は、戦後信勝とともに信長にわびを入れ許されました。しかし信勝は勝家を疎んじて遠ざけるようになり、さらに再び謀反を起こそうと画策していたようです。ここに信勝を見限った勝家は、信長にその旨を報告しました。永禄元年(1558)十一月二日、信長は信勝を病と偽って清洲城(愛知県清須市)に招き謀殺、勝家は以後信長に仕えるようになります。

 勝家は信長の信頼を得て重用され、織田家筆頭家老の地位に昇りました。特に近江平定戦では要衝・長光寺城(滋賀県東近江市)の守将に任ぜられますが、六角氏に囲まれて苦戦します。その際勝家は城内に残っていた水瓶を全て引き出させ、城兵に水を飲ませた後に槍の石突きで全ての瓶を割り、城内から打って出て六角勢を撃破、「瓶割り柴田」の異名を取ったという話は広く知られています。

 信長が本能寺に倒れ、家中の主導権を明智光秀を討った羽柴秀吉に奪われると、勝家は秀吉との対決を決意します。この年の四月、両者はついに北近江賤ヶ岳に激突しますが、佐久間盛政の軍令違反や前田利家の戦線離脱も重なって、敗れた勝家は居城の越前北ノ庄城(福井市)へ退却しました。しかし、やがて城は包囲され、逃れる術はないと悟った勝家は、この日妻・お市の方とともに自刃、六十二歳(異説あり)の生涯を閉じています。