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Vol 4. 謙信の死と御館の乱

前稿で直江信綱の急死により兼続の人生は大きく変化することになると述べたが、上杉家ではそれどころではない重大事が起こった。天正六年 (1578) 三月九日のこと、上杉謙信が春日山城内の厠で突然倒れ、そのまま意識の回復を見ず四日後に死去したのである。

前年の九月、織田信長の命により七尾城救援に駆けつけた柴田勝家は、既に七尾城の落城を知って軍を返した。謙信はすかさず追撃をかけ加賀手取川にて織田勢を破り、いずれ衝突するであろう信長に上杉軍の強さを改めて見せつける形となった。

謙信は年末に春日山城に一旦戻ると、翌年三月に再び大軍を進発させる準備を始めた。目的は上洛とも関東侵攻ともいわれるが、いずれにせよその直前に倒れたのである。死因には厠に隠れていた忍びに刺されたなどという巷説もあるが、どうやら日頃の深酒に起因する脳溢血の可能性が高いようである。

ただでさえ現役当主の死去、家中が動揺しないわけがない。そして拙いことに謙信は家督相続等についての遺言を何も残していなかった。本人もまさか寿命がすぐ先で尽きようとは夢にも思っていなかったに違いない。このため家中が景勝方・景虎方の二派に分かれ、いわゆる跡目争い「御館 (おたて) の乱」が勃発することになる。

景勝の行動は早かった。三月十五日には「謙信公の遺言」と称して春日山城の本丸・金蔵・兵器蔵を占拠し、同二十四日には自身が謙信の後継者であることを宣言した。そして両勢は五月五日に大場で初めて交戦、景虎は妻子を連れて春日山城を脱出し、天文二十一年以来謙信を頼って越後へ来ていた前関東管領山内上杉憲政の居館・御館に立て籠もったのである。

景虎の兄北条氏政は武田勝頼に景虎救援を依頼、勝頼は受諾し五月二十九日には兵を国境付近に進めた。しかし景勝は謙信以来の莫大な金銀にものを言わせ、一部領土の割譲・黄金一万両・勝頼の妹を娶る事などの条件をもちかけて和睦に成功、勝頼は兵を退いた。一説に勝頼の重臣である長坂長閑・跡部大炊助に二千両ずつの賄賂を渡して話を進めたとも言う。

勝頼の撤兵により北条方では九月はじめに氏照・氏邦が出陣、越後に侵入し樺沢城を本拠として坂戸城など近隣諸城の攻撃を開始した。そして激しい戦闘がようやく落ち着いたかと思われた翌天正七年二月一日、雪の降りしきる中を景勝は御館へ総攻撃をかけた。景虎勢の中では一騎当千の豪傑で「鬼弥五郎」の異称を持つ北条景広 (長國) の奮戦が目立っていたが、この日ついに景勝方・荻田主馬 (孫十郎) の槍に討ち取られた。景虎方は多少持ちこたえはしたものの、折からの雪のため小田原からの援軍もままならず、ついに三月十七日に御館は落ちた。

なお、この日景虎に加担していた上杉憲政は、景虎の長男で九歳になる道満丸を連れて和議仲裁のため春日山城へと赴くが、途中の四ツ屋峠において景勝方に斬殺されている。かろうじて景虎は落城寸前に鮫ヶ尾城へと脱出したが、頼ったはずの城将堀江宗親が景勝方に寝返り、進退窮まった景虎は同月二十四日に自刃した。享年二十六歳という若さであった。法名は「徳源院要山浄玄」、供養塔が新潟県妙高市の勝福寺にある (02年4月建立)。
この後、栃尾城の本庄秀綱・三条城の神余親綱・北条城の北条輔広らが抵抗はしたが、順次各個撃破され、天正九年二月に越後を二分した動乱は終息した。ちなみに戦後の論功行賞として、兼続は景勝から船一艘を給されている。

御館の乱に際し、直江信綱は景勝方に加担して春日山城に籠もり、また本拠・与板城の一族を挙げて景虎方と戦った。その結果景虎は滅び、信綱は普通に考えて景勝の下で確固たる地位を築くはずであった。ところが天正九年九月一日、信綱に災難が降りかかる。
論功行賞のもつれから毛利秀広が、春日山城内において景勝側近の儒者・山崎専柳斎秀仙に斬り掛かり殺害するという事件が起こった。秀広は御館の乱の際に戦功を挙げたにもかかわらず何の恩賞の沙汰もなく、それが秀仙のせいであると逆恨みしたのである。ところが、運悪くその場に信綱も居て、突然の出来事に驚き秀広に斬り掛かったのだが、逆に惨殺されてしまったのである。秀広にしても特に信綱に遺恨を持っていたわけではなく、信綱にとっては正に災難としか言いようが無い事件であった。

事件後、上杉景勝は名家・直江家の断絶を避けるべく樋口兼続を故信綱の妻・お船と結婚させ、直江家を存続させた。ここに越後与板城主として「直江兼続」が誕生したのである。兼続二十二歳、お船の方二十五歳の時のことであった。

by Masa

 

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