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Vol 9. 越後から会津へ

文禄元年 (1592) 三月、秀吉は生涯の汚点とも言うべき朝鮮出兵に踏み切った。秀吉は関白就任後あたりから明の征服をちらつかせ出すが、ついにここに具現化されたわけである。その理由としては、端的に言うと大きく分けて2つ考えられる。ひとつはかつての主・織田信長にもその意志があったとみられることから、その遺志を継いで実現させ、名実ともに信長を超えようとしたのではないかということ。もうひとつは国内の領土が飽和状態になってきており、何かの際の褒美として与えられる土地がもはや足りなくなってきていたことである。つまり、十分に褒美が与えられなかった武士たちの不満が高じてくると、せっかく築き上げた「太平の世」が戦乱状態に逆戻りする可能性もあり、下手に大規模な反乱が起きると自政権の存続すら危うい状態になるのである。

しかし、そんな事情は攻められることになった明や朝鮮にしてみれば全く関知せざることで、迷惑以外の何者でもない。いわゆる「文禄・慶長の役」は、こういう状況下で行われた。

 

秀吉は天正十九年、九州の大名に命じて肥前名護屋 (佐賀県唐津市) の地に築城を開始、翌年には早くも完成した。むろん、この城は渡海のための中継基地であり、また参謀本営でもある。なぜこの時期に急に城を築いたのかだが、天正十九年といえば正月二十二日に弟の秀長が大和郡山城で病没している。最も信頼できる身内であり、また「重臣」でもあった秀長の死により、秀吉の暴走に歯止めがかからなくなってしまった感がある。

秀吉より出陣命令を受けた景勝は、兼続ともども五千の兵を率いて肥前名護屋へと向かった。ただ、彼は徳川家康・前田利家らと名護屋に在陣し、一度渡鮮して熊川などで多少の働きはしたものの、上杉勢としてはあまり積極的には戦闘に参加していない。景勝は翌年九月には『定納 (じょうのう) 員数目録』を作成し、領国の内政充実を図っている。これは領国内の家臣とその知行高および軍役数をまとめたもので、軍政両面で能率的に事を運ぶための基本台帳というべきものである。それによると与板衆・上田衆を率いる兼続は五万三千石余を知行し、他を圧倒する存在であった。

 

そして文禄四年 (1595) 二月七日、京都である人物が亡くなるのだが、これが景勝・兼続の後半生を大きく変えることになる。

その人物の名を蒲生氏郷という。彼は織田信長お気に入りの勇将で、戦功は枚挙に暇がない。彼は秀吉政権下の奥州の要として、特に伊達政宗の牽制役として会津に配されていたのだが、突然京都で急死する。死因は病死とされるが不明で、まことしやかに毒殺説が囁かれたのも頷けるが、巷説には石田三成と兼続による共謀説も見える。
以下は『常山紀談』巻十一の二十二 第二百六十三話「石田三成・直江兼続密謀の事」をそのまま現代語訳したものである。

ある雨の降る夜、石田三成は直江兼続を近づけて語った。
「卑しい身分より身を立てて天下を治めるのは大丈夫たるものの志だ。私は豊臣家の恩が深いので、太閤殿下がこの世におられる間はこんな事は考えるべきではないが、いつかは旗を揚げて、天下を取ってやろうと思っている。もしそうなった時、どうやって徳川家康父子を討ち滅ぼすか、お主の武略を聞かせて貰えないか」
   兼続はこれ幸いとばかりに、次のように答える。
「それこそ私の志す所と同じだ。だが徳川父子は関八州を領して、さらに蒲生氏郷という勇将とも親しい。これでは簡単には勝てない。まず先に氏郷を滅して、景勝に会津の地を頂けないだろうか。そうすれば私は景勝と謀って旗を揚げ、自ら先陣を務めよう。その時西国の諸将たちを語らって味方に付け、一気に押し寄せて家康を討つべきだ」  
   三成と兼続はこまごまと謀り、ついに氏郷を毒殺した。その後、秀吉が跡を嗣いだ蒲生秀行の八十万石の所領を削って会津を景勝に与えたのは、この時の謀議が発端だという。

氏郷の死については秀吉の毒殺説もあるようだが、事の真偽はともかく、氏郷の後を嗣いだ秀行ではやはり要衝会津の統治は荷が重かったようで、家臣の統率が出来ない (現に重臣間で紛争が起きている) との咎めを受け、ほどなく下野宇都宮十二万石へ移された。そしてそれと引き替えに、景勝を会津へ転封する沙汰が下ったのである。時に慶長三年 (1598) 正月十日のことであった。

これにより景勝は越後・佐渡九十万石余から一躍会津百二十万石の大大名となったのだが、胸中は複雑であったろう。なお、景勝は前年六月十二日に六十五歳で死去した小早川隆景の後を受け、五大老職に就いたともされるが、この「五大老」は制度としては秀吉の死の直前に「五奉行」と同時に定められたものらしく、それまでは五人の「実力大名」を単にまとめてこう呼んでいたのかもしれない。

つまり、正式な職制としての「五大老」は、家康・利家・毛利輝元・宇喜多秀家と景勝ということになる。また、その呼称も「五大老」が「五人之奉行」、「五奉行」が「五人之年寄」とも言われているが、ここではこれ以上は触れない。

謙信以来の越後を離れることには下々の家臣に至るまで相当な抵抗があったと思われるが、景勝は何のわだかまりもなく会津へ移った。表向きの理由としては、蒲生秀行では会津の統治が出来ないと判断されたことと、伊達政宗・徳川家康の牽制にあったとされる。もちろんそれには間違いなく、政宗や家康を押さえるほどの力量を持った人物は景勝以外には見あたらない。しかし、秀吉の立場で考えると、景勝が越後に根付いてますます強大になっていくと具合が悪いのである。そんな秀吉の意向も、少なからず働いたのではなかろうか。

景勝は城下の一等地にあった屋敷を兼続に与えた (※上部画像右側) 。ここは氏郷の町割り以来、家中の重臣のひときわ大きな屋敷が置かれていた場所だという。余談だが、上杉家が米沢へ移った後の元和八年 (1622) 八月十六日、この屋敷(当時は町野左近邸、領主は蒲生氏郷の孫・忠郷) にて大石内蔵助良雄の師で軍学者として名高い山鹿素行が生まれている。

その年の八月、一代の英雄・豊臣秀吉が没した。家康は秀吉在世中は一応豊臣政権下の大大名として収まってはいたが、これは時勢の流れには逆らわず隠忍自重していたのであって、もとより秀吉に心服していたわけではない。表面には出さなくとも、隙あらばと天下人の座を虎視眈々と狙っていたであろう。そして、秀吉の死を境に徐々にそれが具体化してくることになる。

まず家康は、石田三成らの吏僚と文禄・慶長の役で対立していた加藤・福島ら「武断派」などと呼ばれる諸将に接近、徐々に親密度を増していく。さらに秀吉が禁止していた「無断で縁組みを結ぶこと」を無視し、伊達・福島・蜂須賀氏と縁組みを結ぶ挙に出た。これは豊臣家に対する明らかな違背行為で、家康は当然それを承知の上で行ったわけである。三成らはこれを咎め、「内府違ひの条々」なる弾劾文を発すが、家康は「うっかりしていた」等のらりくらりと言い逃れし、挙げ句の果てには開き直る始末であった。こうして家康と三成らとの対立はますます深まっていったのである。

家康は次いで前田家・上杉家にも難癖を付けてきた。前田家は従順な態度を取るが、景勝は違った。兼続の名において家康に対する宣戦布告とも言える書状を発し、これが史上名高い「関ヶ原」の引き金となる。

by Masa

 

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