米沢は慶長三年より兼続が領して町作りを行っていたが(自身六万石、与力分合わせ三十万石)、そこへ上杉家が入って人口が一気に何倍にも増えたため、新たな城下町作りに励んだ。兼続は米沢城の整備に着手すると、並行して治水事業にも積極的に取り組んだ。城下の東を流れる松川(最上川)に約三キロメートルに及ぶ石積みの谷地河原堤防(通称「直江石堤」)を築いて洪水を防ぎ、また数箇所に堰を設けて城下への水を確保した。同時に新田開発にも努め、表高の三十万石に対して実質的には五十万石を超える収入が得られるようになったという。(画像下左:米沢に残る「直江石堤」)
しかし、一方で兼続は軍事面での準備も抜かりなく考えていたようで、領内において鉄砲の製造も始めている。これは平城である米沢城の防御面を考えた上でのことと思われ、駒木根右近ら蒲生家で鉄砲術に長けた者を召し抱えるとともに慶長九年(1604)、近江国友村から鉄砲師の吉川惣兵衛を、また和泉堺から和泉屋松右衛門を招き、城下南の外れに位置する吾妻山中腹の白布(しらぶ)高湯(現白布温泉)に鍛造工場を作り、千挺の火縄銃を製造させたという。城下から四里半もの距離がある人里離れた山中に工場を設けたのは、一つには人目を避け密かに製造するためと、もう一つは鉄砲の製造に必要な大量の炭の供給が容易く行えたことが考えられる。また、白布温泉の泉質が含石膏・硫化水素泉すなわち「硫黄泉」であることから、火薬の原料となる硫黄が産出されていた可能性があり、現地の旅館には先祖が鍛冶職人の賄い等の世話を行った記録や伝承が今も残っている。そして兼続は同年十一月に鉄砲の射撃術や心構えなどをまとめた『鉄砲稽古定』十五ヵ条なるものを作成し、射撃の訓練を奨励している。そしてこれが後の大坂の陣で威力を発揮することになる。 これらに従事した鉄砲職人たちは、後に米沢城下に屋敷を与えられて扶持を受け、引き続き鉄砲の製造・修理を続けたといい、近年まで彼らが集住した一角が米沢市鉄砲屋町としてその名を留めていた(現在は中央三丁目一帯)。 (画像下右:米沢・上杉家廟所の謙信廟) |