兼続は景勝とともに翌月米沢に帰陣するが、それも束の間、七月には嫡男景明が病没した。享年二十二という若さであった。景明は生まれつき病弱で眼病を患っていたといい、兼続もある程度は覚悟していたではあろうが、後継ぎの早世は五十六歳になった兼続にとってショックだったに違いない。
兼続の人物像が垣間見えるエピソードとして、以下の話が有名である。
※兼続の家臣で三宝寺勝蔵という者が下人を無礼討ちしたところ、その遺族たちは納得せず兼続に「無礼討ちにされるほどのことではない」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴え通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは本人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、その金で納得してくれないか」と頼んだが、遺族たちはあくまでも本人を返せと言い張る。すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣わす者がおらぬゆえ、すまぬがそなたたちが行ってくれぬか」と言って遺族三人の首をはね、その首を河原に晒した上で横に次の文言を書き付けた札を立てたという。
未得御意候得共、一筆令啓上候、三宝寺勝蔵家来何某、不慮の義に付相果候、親類共歎き候て、呼返し呉候様に申候に付、則三人の者迎に遣はし候、死人御返し可被下候 (いまだお目に掛かったことはございませんが、一筆したためさせていただきます。三宝寺勝蔵なる者の家来が不慮の義により亡くなりましたが、親類たちが歎き悲しみ、呼び返してくれと申します。つきましては三人の者を迎かえにやらせますので、死んだ者をお返し下さいますようお願い申し上げます) 恐々謹言 慶長二年二月七日 直江山城守兼続 閻魔王様 宜敷獄卒御披露
学者肌で穏和な性格という感のある兼続だが、聞き分けのない者たちに対しては、このような峻烈な一面を持ち合わせていたことがわかる。ちなみに「三宝寺勝蔵」を「横田式部」、「家来何某」を「茶坊主」として、同様の話を記したものもある。
※諸大名が居並ぶ席でのこと。伊達政宗は当事大変珍しかった慶長大判を懐から取り出して、皆に見せたが、その大判が回って来た際、兼続は扇で受け取りぽんぽんと跳ね返しながら見つめた。政宗が手に取ってよく見るよう言うと、兼続は「不肖兼続の右手は、戦場にあっては謙信殿の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものに触れるわけには参りませぬ」と言い、大判を政宗の元に投げ返した。政宗は一言も発することができなかったという。
※関ヶ原合戦後、兼続が江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違った際のこと。兼続が目礼もせず通り過ぎようとすると、政宗は憤慨し「陪臣の身で、六十万石の大名に挨拶もなく通り過ぎるとは無礼である」と激しく問い詰めた。兼続は振り返ると「なるほど後ろから見れば紛れもない政宗公。長年戦場ではお目にかかっておりましたが、いつも後ろ姿ばかり。正面から拝見するのは今日が初めてで、一向に気がつきませんでした」と言い返し、政宗を赤面させたという。
これらの話も兼続の言葉は「無礼」そのものと言えようが、兼続の頭脳の切れや機知に長けた一面を伝える逸話である。
※一人息子の平八景明が十六歳のとき、近江国膳所(ぜぜ)城主・戸田氏鉄(うじかね)の娘と縁談が整い、戸田家から朱塗りの膳椀・金蒔絵の道具が送られて来た。直江家でも相応しい道具を揃えなければと兼続に相談すると、「それはもってのほか。対等の道具を揃えなければ婚礼できないとあらば、早速破談いたす。武士の魂たる刀槍に錆さえなければ何も恥じることはない」と語気を強めたという。
兼続は普段の生活は質素であったと伝えられるが、それは単なる吝嗇(りんしょく=ケチ)ではなく、武士として不必要な部分に金を掛けることを嫌っていたことがわかる話である。 |