景勝はというと、この年九月に本庄繁長を出羽に向けて最上勢を蹴散らしているが、目立った戦いはなくこの年は暮れた。そして、翌天正十七年六月十二日、前回既に述べた通り、景勝は佐渡に渡って本間三河守・羽茂 ( はもち) 高持らを討伐、佐渡を平定した。
そして十月、何としても北条氏征伐の口実が欲しい秀吉にとって、正におあつらえ向きの事件が起こる。
天正十七年十月二十三日のこと、北条氏邦の家臣で沼田城代の猪俣能登守邦憲が、真田領の名胡桃 ( なぐるみ) 城を謀略により突然奪った。もともと沼田領を巡っては北条氏と真田氏の間に少々複雑な事情があった。北条氏は領土の境界を接する真田氏と争い、秀吉の介入によりとりあえず沼田領の大半は北条氏の領有として一旦事は落ち着く。これは真田氏 ( 昌幸) にとっては不満な裁定であったが、相手が秀吉ではどうにもならず、名胡桃城は真田氏の領有とされたことで我慢する格好であった。そして秀吉は沼田領の大半を認める代わりに氏政あるいは氏直の上洛 ( すなわち臣従) を求めたが、前述の通り北条父子はすぐに上洛しようとはしなかった。そんな中で事件は起こったのである。
この行為は秀吉が天正十五年に発した惣無事令 ( 大名間の私闘を禁じた法令) に明らかに違反しており、秀吉は激怒した。いや、内心はほくそ笑んでいたに違いない。小田原北条氏征伐の立派な大義名分が出来たからである。かくして秀吉は十二月には景勝をはじめ徳川家康・前田利家らを聚楽第に招いて北条討伐の作戦会議を開いた。
そして翌天正十八年 ( 1590 ) 年三月一日、秀吉は全国の大名を従え、自身は三万余の軍勢を率いて小田原へ進発、総勢二十万を超える軍勢で小田原城を包囲した。
景勝も兼続とともに正月下旬に春日山城を出陣すると、前田利家らと合流して次々と北条方の支城に攻めかかった。三月十八日に碓氷 ( うすい) 峠を越えて上野( こうずけ) に侵入すると安中( あんなか) ・国峰・厩橋( うまやばし) の各城を落とし、四月二十日には大道寺政繁が拠る松井田城を、さらに武蔵へ侵入し六月十四日には北条氏邦が籠もる鉢形城、同二十五日には八王子城と立て続けに城を抜いた。これらの戦いでは兼続はもとより藤田信吉や甘糟清長らが活躍している。 |