そして文禄四年 ( 1595 ) 二月七日、京都である人物が亡くなるのだが、これが景勝・兼続の後半生を大きく変えることになる。
その人物の名を蒲生氏郷という。彼は織田信長お気に入りの勇将で、戦功は枚挙に暇がない。彼は秀吉政権下の奥州の要として、特に伊達政宗の牽制役として会津に配されていたのだが、突然京都で急死する。死因は病死とされるが不明で、まことしやかに毒殺説が囁かれたのも頷けるが、巷説には石田三成と兼続による共謀説も見える。
以下は『常山紀談』巻十一の二十二 第二百六十三話「石田三成・直江兼続密謀の事」をそのまま現代語訳したものである。
ある雨の降る夜、石田三成は直江兼続を近づけて語った。
「卑しい身分より身を立てて天下を治めるのは大丈夫たるものの志だ。私は豊臣家の恩が深いので、太閤殿下がこの世におられる間はこんな事は考えるべきではないが、いつかは旗を揚げて、天下を取ってやろうと思っている。もしそうなった時、どうやって徳川家康父子を討ち滅ぼすか、お主の武略を聞かせて貰えないか」
兼続はこれ幸いとばかりに、次のように答える。
「それこそ私の志す所と同じだ。だが徳川父子は関八州を領して、さらに蒲生氏郷という勇将とも親しい。これでは簡単には勝てない。まず先に氏郷を滅して、景勝に会津の地を頂けないだろうか。そうすれば私は景勝と謀って旗を揚げ、自ら先陣を務めよう。その時西国の諸将たちを語らって味方に付け、一気に押し寄せて家康を討つべきだ」
三成と兼続はこまごまと謀り、ついに氏郷を毒殺した。その後、秀吉が跡を嗣いだ蒲生秀行の八十万石の所領を削って会津を景勝に与えたのは、この時の謀議が発端だという。
氏郷の死については秀吉の毒殺説もあるようだが、事の真偽はともかく、氏郷の後を嗣いだ秀行ではやはり要衝会津の統治は荷が重かったようで、家臣の統率が出来ない ( 現に重臣間で紛争が起きている ) との咎めを受け、ほどなく下野宇都宮十二万石へ移された。そしてそれと引き替えに、景勝を会津へ転封する沙汰が下ったのである。時に慶長三年 ( 1598 ) 正月十日のことであった。 |