徳川家康は、まず石田三成らの吏僚と文禄・慶長の役で対立していた加藤・福島ら「武断派」などと呼ばれる諸将に接近、徐々に親密度を増していった。さらに秀吉が禁止していた「無断で縁組みを結ぶこと」を無視し、伊達・福島・蜂須賀氏と縁組みを結ぶ挙に出る。これは豊臣家に対する明らかな違背行為で、家康は当然それを承知の上で行ったわけである。三成らはこれを咎め、「内府違ひの条々」なる弾劾文を発すが、家康は「うっかりしていた」等のらりくらりと言い逃れし、挙げ句の果てには開き直る始末であった。こうして家康と三成らとの対立はますます深まっていった。
家康は次いで前田家・上杉家にも難癖を付けてきた。前田家は従順な態度を取るが、景勝は違った。兼続の名において家康に対する宣戦布告とも言える書状を発し、これが史上名高い「関ヶ原」の引き金となる。このいわゆる「直江状」については初回の稿を今一度ご参照いただくとして、家康は景勝に上洛と謝罪を要求するが景勝は拒否したため、ここに正式に「豊臣家への謀反」を理由とした会津討伐が決定した。対する景勝は出羽・仙道方面の守備を厳重にし、南山城には大国実頼、福島城には本荘繁長、小峰城には芋川正親・平林蔵人、長沼城には島津忠直、梁川城には須田長義、白石城には甘糟景継をそれぞれ配備して迎撃体勢を構築する。
家康は慶長五年 ( 1600 ) 六月十八日に伏見城を発つと江戸城にて軍議を開き、最上義光には米沢口から、前田利勝・堀秀治には越後津川口より会津侵入を命じた上で、自身も七月二十一日に江戸を発って会津へと向かった。
この間、景勝は先陣を白河付近に繰り出すと、自身は八千の兵を率いて長沼に出陣、家康を待った。しかし七月二十四日、家康が下野小山に着陣したその日に伏見城将鳥居元忠から西軍の伏見城攻撃の報が届いたため、家康は翌日世に言う「小山評定」を開き、景勝への押さえとして結城秀康を残すと軍を西へ返した。
そして家康率いる東軍は西軍の防御ラインをいとも簡単に撃破、九月十五日の美濃関ヶ原における決戦で石田三成の指揮する西軍を壊滅させたことは広く知られている事実である。ではその頃兼続はどういう行動をしていたのであろうか。
家康と景勝の激突は回避されたが、その隙に最上義光が東軍方の秋田実季らとともに志駄義秀の守る酒田城を攻めようとしていること知った景勝は、兼続に命じて最上領への侵攻を命じた。兼続は九月三日に会津から米沢へ戻ると、九日には自ら二万四千の軍を率いて進発、同時に庄内側からも志駄義秀・下吉忠の三千が最上領へ侵攻した ( 兵数には異説あり) 。
十三日、兼続は色部修理を先手として最上領畑谷城へ攻めかかり、激戦の末に落城させ城将江口道連は自刃した。さらに援軍に駆けつけた最上勢 ( 飯田播磨・矢桐相模) をも粉砕、続いて山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を抜き、義光の本城・山形城以外は残すところ志村光安・鮭延秀綱の拠る長谷堂城のみとなった。