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『蜂須賀正勝伝』 Vol.3

 天正五年(1577)七月、山陽方面を担当する羽柴秀吉は大兵を率いて播磨姫路城(兵庫県姫路市)へと入り、周辺の国人衆も続々と麾下に参じた。当時姫路周辺では、赤松氏の一族である御着城(同)主・小寺政職が勢威を振るっていた。秀吉の播磨侵攻に当たって小寺家中では毛利方に付くか織田方に付くかで意見が割れたが、政職は家老の小寺孝高(のち黒田官兵衛=姫路城主)の進言を採用、孝高は岐阜に赴いて信長に謁して播磨の情勢を述べ、中国攻略の案内役と姫路城の提供を申し出た。信長は孝高の人物を高く評価し、圧切(へしきり)の名刀を与えたという。
 早速秀吉は同年十一月に上月・福原両城(兵庫県佐用町)を攻略して西播を平定、要衝上月城には御家再興を熱望する尼子勝久を城将として置き、山中鹿介幸盛を補佐に付けた。事態を憂慮した毛利氏は吉川元春・小早川隆景の両将を出陣させたため、秀吉は大敵と対峙することになった。


 この事態に東播・三木城(兵庫県三木市)の別所長治が突如として毛利氏に通じて寝返ったため、秀吉は書写山に陣を置いて三木城攻めの拠点とする。このため上月城救援を放棄せざるを得ない状況となり(信長からの厳命)、結局上月城は落ち尼子勝久は自刃、捕らえられた山中鹿介は護送中に殺害された。
 秀吉は三木城攻略に当たり周辺の支城を各個撃破、孤立した三木城を包囲し兵糧攻めにした。ここに、後に行われる鳥取城攻め「鳥取の飢え殺し」と並び称される「三木の干殺し」が開始されるが、正勝はこの三木城攻めや鳥取城攻めで大いに活躍した。

 毛利方は三木城に兵糧を搬入するべく別所氏と共同で行動を起こし、生石(おいし)中務少輔を総大将として派遣、雑賀衆の協力を得て秀吉方の谷大膳衛好の守る平田砦を攻撃、大膳は戦死し砦は陥落した。別所勢も別所吉親らを出陣させ兵糧を受け取ろうとするが、秀吉は直ちに正勝らの一隊を救援に向けると、正勝らは淡河定範ら別所方の将を撃破して城に追い返し(淡河定範は戦死)、さらに平田砦にいた毛利勢をも討ち取って兵糧の搬入を見事に阻止した。
 三木城はほぼ二年にわたる抗戦を続けたが、天正八年(1580)一月十七日に落城し別所長治は自刃した。この間、信長にとっては摂津有岡城主・荒木村重の謀反もあり、一つ対応を間違えば大事になる可能性もあったが、村重の謀反も鎮圧され、あとは毛利氏との対決を待つばかりとなった。この後播磨各地の国人衆はほとんどが秀吉に服属したが、宍粟郡長水山城・広瀬城(兵庫県宍粟市)の宇野氏は最後まで抵抗を続けていた。正勝は神子田正治らとこれを攻め、美作の新免氏を頼って城を脱出した宇野祐清(民部大輔)・政頼(下総守)らを追撃した。その結果、宇野氏の主立った者の大半は激闘の末に自刃するが、正勝の子で当時二十三歳になっていた家政は、宇野一族の重清を捕らえるなど多くの手柄を立てた。戦後、秀吉は正勝父子の功を賞し、正勝には長水山城を、家政には月毛の馬を与えた。ここに正勝は秀吉に仕えて以来初めて一城の主となったのである。

 秀吉はしばらく三木城に入っていたが、三木城は位置的に東に偏りすぎているため対毛利氏の作戦が遂行しにかったこともあり、秀吉は黒田官兵衛の進言に従って姫路城に本拠を移した。そして秀吉は姫路城に移ると正勝の長年の功に報い、西播龍野(兵庫県たつの市)の地に五万三千石を与え、改めて正勝を龍野城主とした。

 続いて秀吉は鳥取城攻めを行った。城を守るのは吉川経家である。秀吉は三木城攻めと同様に兵糧攻めを採用、城方は兵糧の尽きる中で必死に抗戦するが、ついに天正九年十月二十五日に経家は自刃し城は落ちた。その際、伯耆に出陣して秀吉方の南条元続の居城・羽衣石(うえし)城(鳥取県湯梨浜町)を攻めていた吉川元春は、経家の死を知ると馬ノ山に陣を置き、決死の覚悟で秀吉と対峙した。秀吉は鳥取城を落とすと直ちに羽衣石城救援に向かい、正勝に兵糧や物資を城へ搬入させた。その際これを阻もうとする吉川勢との間に戦いが起こるが、正勝は背水の陣を敷き必死の覚悟を示す吉川勢との決戦は不利と秀吉に進言、秀吉もこれを容れて程なく退却、元春も撤兵したため大規模な衝突は避けられた。

 その後秀吉は毛利水軍の最前線である淡路に渡って由良城を攻めると、城主安宅貴康は正勝を通じて秀吉に降伏、岩屋城とともに秀吉に属した。以後正勝は黒田官兵衛とともに瀬戸内海軍衆の調略に当たるが、この調略は不首尾に終わった。しかし淡路を押さえたことにより、西進した場合の後顧の憂いがなくなったのは大きく、秀吉は翌年四月四日に岡山城(岡山市)に入ると正勝・官兵衛に命じ、備中高松城(同)主・清水宗治の調略を行わせた。むろん宗治は応じず、秀吉は高松城に対して水攻めを行った。
 この間の六月二日、信長が京都本能寺に滅ぶという大事件が起こるが、秀吉は毛利方情報を入手する前に講和を急ぎ、結局宗治本人の自刃という形で決着させると、囲みを解いて軍を東へ返した。秀吉は一旦姫路城に戻ると正勝に命じて城内の金銀を残らず将士に分配させ、明智光秀と乾坤一擲の戦いを行うことを宣言、再び東進を開始した。なお、この時の秀吉の急行軍は後に「中国大返し」と呼ばれている。

 秀吉は六月十三日に京都山崎の地で明智勢と激突、敗れた光秀は近くの勝龍寺城に逃げ込んだ後に夜陰に紛れて脱出、居城の近江坂本城へ向かう道中に山城小栗栖にて土民の手に掛かって落命した。
 秀吉は信長の仇討ちを果たしたが、織田家の家督相続を巡って柴田勝家と対立、両者は翌年四月に北近江・賤ヶ岳で激突した。先に柴田方の佐久間盛政が動き、大岩山に布陣する羽柴方の中川清秀を急襲、清秀は戦死する。この時秀吉は大垣にいたが、『武功夜話』によると正勝ら蜂須賀党の面々を先発させ、後に本隊が通る沿道の住民に松明や食糧を準備するよう命じたという。戦いは周知の如く秀吉が勝利し、勝家は居城である越前北ノ庄城(福井市)まで戻って自刃した。秀吉は越前から加賀へと進むが、周辺諸城がほとんど投降する中、佐久間盛政の居城だった尾山城(金沢市)だけは頑として抵抗する構えを見せていた。秀吉は正勝を使者として城内に送り、正勝は将兵や妻子の助命を伝えて無事に城を接収することに成功した。秀吉の命により同城にはこれ以後前田利家が入ることになるが、これが現在の金沢城である。

 秀吉は天正十三年(1585)三月に内大臣となり、最終的には翌年末に関白太政大臣となるが、正勝もその際に従四位下修理大夫に叙任している。また秀吉は大坂城築城に際して正勝に大坂城外に邸宅を建てて住まわせ、参勤料として丹波・河内において五千石を与えた。これ以後領国龍野の政務は子の家政が執り行っている。

 正勝は秀吉の紀州征伐・四国征伐にも従軍、特に四国征伐では家政が活躍した。秀吉は戦後家政に阿波一国十七万五千石を与え、龍野城には代わりに福島正則を入れた。しかしその頃正勝は病にかかり、一旦京都で養生に務めて回復したかに思われたが程なく再発、天正十四年五月二十二日に大阪城外の邸宅で没した。享年六十一。秀吉が最も信頼する腹心として生涯を全うしたと言って良い名将の終焉であった。

 

【完】

 

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