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『柿崎景家』 〜謙信を支えた謎多き猛将〜 vol.2

 越後で急速に台頭した長尾為景は、家督を晴景に譲って表向きには隠居することになるが、引き続いて実権は握っていた。晴景は一説に病弱で暗愚、また素行も良くなかったと伝えられており、後に長尾景虎(上杉謙信)が自筆の書状に「兄晴景病弱につき越後を治めるようになった」と記していることから、暗愚・素行不良云々は別として病弱であったことは事実のようである。戦国の世において主君が病弱であれば、家臣達が相当一致団結していないと家の存続は難しい。長尾家中も例に漏れず、晴景に重用されていた黒田秀忠・大熊朝秀が権力に物を言わせて専横的な態度を見せ始めた。これは当時栃尾城主となっていた景虎が春日山城に入り、兄晴景とも協力して一旦は鎮圧されるが、黒田は景虎が栃尾に戻ると再び反乱を起こした(黒田の乱)。結局黒田は景虎に攻め滅ぼされて反乱は収まるが、今度は一部の家臣の間に弟の景虎を擁立しようとする動きがみられるようになった。
 この頃の景家の動向は不明であるが、一説に景家の妻は黒田秀忠の妹あるいは娘とも言われており、景家は秀忠に味方するよう誘われたものの、妻を離縁した後に春日山城に馳せ参じたという。妻の出自に関して真偽は不明だが、後に景家が景虎の下で活躍しているのは事実で、当時黒田方には加わっていなかったようである。

 やがて長尾晴景は上杉定実の仲介により、景虎に家督を譲って隠居した。いや、家中の要請に屈して隠居させられたといった方が妥当であろう。これが天文十七年(1548)の大晦日のこと、景虎十九歳、景家三十六歳(推定)であった。ちなみに晴景は隠居から五年後の天文二十二年(1553)二月に四十二歳の若さで没している。

 

 越後で急速に台頭した長尾為景は、家督を晴景に譲って表向きには隠居することになるが、引き続いて実権は握っていた。晴景は一説に病弱で暗愚、また素行も良くなかったと伝えられており、後に長尾景虎(上杉謙信)が自筆の書状に「兄晴景病弱につき越後を治めるようになった」と記していることから、暗愚・素行不良云々は別として病弱であったことは事実のようである。戦国の世において主君が病弱であれば、家臣達が相当一致団結していないと家の存続は難しい。長尾家中も例に漏れず、晴景に重用されていた黒田秀忠・大熊朝秀が権力に物を言わせて専横的な態度を見せ始めた。これは当時栃尾城主となっていた景虎が春日山城に入り、兄晴景とも協力して一旦は鎮圧されるが、黒田は景虎が栃尾に戻ると再び反乱を起こした(黒田の乱)。結局黒田は景虎に攻め滅ぼされて反乱は収まるが、今度は一部の家臣の間に弟の景虎を擁立しようとする動きがみられるようになった。
 この頃の景家の動向は不明であるが、一説に景家の妻は黒田秀忠の妹あるいは娘とも言われており、景家は秀忠に味方するよう誘われたものの、妻を離縁した後に春日山城に馳せ参じたという。妻の出自に関して真偽は不明だが、後に景家が景虎の下で活躍しているのは事実で、当時黒田方には加わっていなかったようである。

 やがて長尾晴景は上杉定実の仲介により、景虎に家督を譲って隠居した。いや、家中の要請に屈して隠居させられたといった方が妥当であろう。これが天文十七年(1548)の大晦日のこと、景虎十九歳、景家三十六歳(推定)であった。ちなみに晴景は隠居から五年後の天文二十二年(1553)二月に四十二歳の若さで没している。

 

 景家はとかく戦闘一辺倒の猛将として捉えられがちだが、実際には軍事面のみならず、内政や外交にも上杉家の宿老として活躍した。謙信外征中の春日山城の守備や、斎藤朝信と共に奉行として領内の政務を担うなど、いかに謙信から信頼を受けていたかがわかる。特に小田原北条氏との間における永禄十二年(1569)六月の越相同盟締結の際には、北条方が人質として氏康の子・氏秀(後の上杉景虎)を出したのに対し、上杉方では景家の子・晴家を小田原城へ送っている。それも北条氏では初め景家本人を要求したというから、対外的にも景家の存在の大きさがはっきりわかる。しかし、この北条氏との関係がやがて柿崎氏受難のきっかけとなり、景家の終焉すらはっきりしないという気の毒な結末を迎えることになるのである。
 景家にはこの時点では何の責任もない。要は北条氏政が武田信玄の策に乗せられた形で越相同盟を一方的に破棄したことが最大の理由であり、その後謙信と北条氏が戦うにあたって、晴家を人質として小田原に送っている景家との間に微妙な感情が生まれたことは否定できない。
 景家は天正二年(1574)以降、諸記録からその存在が消えている。この時期に隠居あるいは死去したものとみられるが不明である。菩提寺の楞巌寺(りょうごんじ・新潟県上越市)にある過去帳には十一月二十二日を命日とし、法名は「大乗院殿籌山曇忠大居士」と見える。家督は二男の晴家が継いだ。ちなみに嫡男の源三祐家は前年の越中攻めで被弾し深手を負ったと伝えられており、程なく没したのかもしれない。楞巌寺は景家が春日山より天室光育和尚を迎えて建立した寺である。天室光育は上杉謙信の師父として知られる高僧(林泉寺六代住職)で、永禄六年(1563)六月二十三日に同寺において寂滅(死去)している。

 また、景家の終焉を天正五年(1574)十一月七日没とする説がある。これは越中不動宿において讒言により謙信に誅殺されたというもので、その理由は以下の通りである。

 天正三年(1575)、上杉家中三百騎を預かる彼は、さしあたって不必要な馬の処分をと上方へ馬を売りに出した。上杉家は上方とは青苧(あおそ=麻の原料)等の流通で交流がある。これを聞きつけた織田信長がその馬を高価な値で買い取り、礼書と時服をわざわざ景家へ送り届けた。この時景家が謙信へ事の報告をして指示を仰いでさえいれば良かったのだが、景家は報告せず、結局は謙信に織田方内通と判断されてしまったのである。死に臨んで景家は、「このような謀事に易々乗せられるようでは先は望めない」と言って果てたという。

 謙信が同六年三月に卒中で春日山城に没したとき、巷で「夜な夜な無実を訴える景家の亡霊に苦しめられて死んだ」とまことしやかにささやかれたという。真偽はともかく、周りの人々が景家に同情的な感情を持っていた証拠といえよう。
 柿崎和泉守景家、没年不詳。上杉家中でこれほど重きを為して活躍した人物の終焉としては、まことに不可解で残念というしかない。

 

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