●昌幸、上田城に籠城す
かくして天正十三年(1585)八月二日、 籠城史に名高い、第一次上田合戦(神川合戦)が開始されます。 家康は秀吉と小牧長久手の合戦後に講和を終えると、 地方小大名:真田家の離反・独立によって傷つけられた威信を回復するために、鳥居元忠を総大将として平岩親吉、大久保忠世らにおよそ7000〜1万の兵を率いさせ 真田領に侵攻させます。
昌幸は是を受けて築城の途中である上田城での籠城を敢行。 徳川軍は上田城東方の国分寺方面に押し寄せました。 主将:昌幸は自ら率いる4〜500余を上田城本丸に、
・城の横曲輪(よこぐるわ)を初め諸所にも兵を配置、
・城の東南の神川(かんがわ)に200の前衛部隊、
・伊勢山(戸石城)には嫡男:信之の800余、
籠城方総勢2000余りを配置します。
・上田城下には千鳥掛け(互い違い)に結いあげた柵を設け、
・複雑な並びの町家・山野に約3000の武装農民を配し、
紙幟(かみのぼり)を差し連ねさせ伏兵としました。
『武家事記』によれば上田城は南を千曲川(ちくまかわ)、西・北は千曲川の支流:矢出沢川を控え土塁中心の石垣の無い、簡素な平城だったと伝えられています。 小田原城は100を超える支城・砦があり、既におびただしい武器・兵糧・弾薬・衣服が集積されていました。
● 神算鬼謀:真田昌幸
徳川勢の先手が城の東南の神川(かんがわ)に差し掛かると200の真田前衛部隊はこれを迎え撃ち、槍を数回あわせると後退し始めます。
昌幸自身は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわずに城下の戦況を尻目に家臣と碁を打っていました。真田勢が小勢で抵抗も無いので、徳川勢は一気に城を落とそうと城内になだれ込みます。 城外にいた200の前衛部隊は押し捲られて、横曲輪(よこぐるわ)に後退・集結します。
なおも昌幸は三国志の諸葛亮が街亭の敗戦で司馬仲達を退けた、『空城計』のように碁を打ち、ついには若侍に手鼓で調子を打たせ名高い『高砂の謡』をうたって徳川勢を挑発します。
ここで鳥居元忠が司馬仲達のように退けば戦いは長引いたことでしょうが、あまりに城内に易々と入れたため、勇猛な三河兵は勢いとともに鬨の声を上げて大手門も突破しようとします。 このとき、昌幸は城門上に隠した丸太を落とさせ、徳川勢に弓・鉄砲を撃ち掛けました。さらに城内の500の兵と横曲輪(よこぐるわ)に集結した兵を押し出させ、 上田城の町家には折からの強風に乗せて火を放ちました。
山野に伏兵していた武装農民はこの火を合図にいっせいに陣太鼓を鳴らして徳川勢に打ちかかり、真田信之の指揮する800は戸石城より討って出て徳川勢の退路を遮断します。
徳川勢の先手は状況が急転し四方に敵を受け指揮系統が乱れますが、手柄を目指して猛進する後続の兵士達は急に止まれず籠城方の挟撃を受けました。 しかも設置してあった千鳥掛けの柵に引っかかり、複雑な町家に退路を見失い、徳川勢は大混乱に陥ります。
城壁にたどり着いた徳川兵士達も鉄砲隊に次々と撃ち落とされます。 甚大な被害を受けて北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信之の突撃を腹背に受けて陣は崩され、 四散した兵は神川で溺死するという被害も出しました。
真田信之書状によると、この戦いでのによると徳川方の死者は1300余、大久保忠教によれば300名余とされています。
一方の真田方の死者は40余とされています。
大久保彦左衛門の『三河物語』では徳川勢を指して
〜ことごとく腰がぬけはて、震えて返事も出来ず、下戸に酒を強いたるが如し〜
と評している。徳川の旗本が敗北を認めたということになります。 |