● 真田昌幸の謀計
昌幸はこの動揺に付け込み、才覚を駆使した抜群の謀略をめぐらせます。 内には城将:藤田信吉・金子美濃守に内応を説き、 外には元信州先方衆の矢沢頼綱を総大将にして 沼田・名胡桃攻略へ出陣させます。
天正八年、
二月に、名胡桃城主・鈴木主水正重則の調略に成功、
三月に、北条勢が真田方:小川城に攻めかかるも城将:小川可遊斎が撃退、
四月に、名胡桃に入った昌幸の下に金子美濃守が降伏。
五月に、矢沢頼綱に包囲された沼田城は藤田信吉が開城。
この要害・要衝にある沼田城を簡単に手中に収めることに成功した昌幸の城裁きは鮮やかという他は有りません。
ところが会津に身を寄せていた沼田平八郎景義は金山城主:由良国繁をはじめ上州諸豪族に助勢を得て 天正九年(1581)二月、三千の兵を興し沼田城奪回を開始します。
平八郎景義の叔父にあたる金子美濃守泰清は事態に仰天し、 ことの成り行きを昌幸に報告します。
昌幸は金子美濃守が叔父としての立場を利用し景義に”城を明け渡す”と偽るならば、1000貫の恩賞を約束します。 平八郎景義は叔父:金子美濃守の涙ながらの言葉(芝居です;)と沼田城士の血判状(鶉の血で作った偽物)に安心して沼田に入城しますが、城内にて襲われ首を刎ねられてしまいます。
金子美濃守はこの謀殺劇で一躍大封を得、沼田城代にまでなります。
(しかしその最後は昌幸に遠ざけられて生涯を終えます・・・)
この事件で実質上、沼田より西に位置する利根・吾妻のニ郡は武田勝頼の勢力版図となります。 昌幸は岩櫃城代だった海野幸光、幸景兄弟も5ヵ月後に誅して一族で足場を固めます。
判官びいきの昌幸にもこのように過酷な仕置きを行った事実があるのはやはり戦国の慣わしというべきでしょうか。
● 武田氏の滅亡
天正十年(1582)、 南信濃の高遠城が織田信忠によって陥落した際、 昌幸は勝頼を岩櫃城に迎えて、険阻な地形を頼りに籠城する決意でした。おそらく小県〜吾妻〜沼田の連携でゲリラ戦を展開するつもりだったのだと思います。
籠城によって長期間織田軍を岩櫃に釘漬けにして疲れさせ、上杉・北条・毛利・長宗我部が動けば状況が好転、あわよくば勝頼を立てて甲斐に返り咲くという目論みだったようです。 このあたりは【表裏比興】【稀代の横着者】と悪名の目立つ昌幸ですが信玄亡き後も武田家のためには滅亡もいとわぬ覚悟が見られます。
しかし勝頼の自刃により武田家は滅亡しました。 三月に入り状況悪化の中、昌幸は急に備え 沼田城を守る矢沢頼綱にも兵糧を蓄え牢人衆を召抱えるよう指示。臨戦態勢を敷かせます。
三月下旬、信長は武田征伐の論功行賞を行います。 征伐軍副将:滝川一益は上野国:厩橋城主として派遣され、結果として昌幸は沼田を滝川一益の甥:滝川益氏に明け渡します。
昌幸は四月八日に信長に馬を送って誼を乞いなんとか織田家へ臣従に成功していたのです。 織田家の方針としては
”武田ゆかりの者は登用するべからず”
という状況でしたが昌幸は謀略を駆使し、織田信忠に真田と上杉・北条が繋がるのを恐れさせて、かえって真田を味方に引き入れるように仕向けます。
事は上手く運び、信長の仕置きにより昌幸は滝川一益の与力となります。上野国と信濃国小県郡・佐久郡は滝川一益の所領になりましたが一益は情勢不穏の上信州を考慮して国人衆に対しては懐柔政策をとりました。
昌幸も本領の戸石・岩櫃・小県を安堵されています。 |