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沼田城戦史T〜沼田の変遷と真田昌幸〜


沼田城をめぐる数々の攻防戦

(1)沼田の変遷
(2)真田昌幸の謀計
(3)武田氏の滅亡
(4)本能寺の変〜沼田城奪還〜




 
●沼田の変遷

 沼田顕泰は川場村に隠居の後、側室の兄:金子美濃守泰清の諫言にまどわされ、当時沼田城主だった三男:弥七郎朝憲の家臣を遠ざけてしまいます。

永禄12年(1569年)1月、金子美濃守は朝憲を川場村で暗殺し、妹と顕泰の子、平八郎景義を次期城主に擁立しようと目論見ます。 しかし沼田城にいた朝憲の妻子、縁者はこれを良しとせず上杉氏の厩橋城:城代で舅の北条丹後守高広に助勢を願い川場村勢へ合戦をしかけました。
結果、越後の助勢も得た城方に川場村勢はかなわず、 顕泰は側室{湯のみ}と平八郎景義を連れ、会津城の芦名盛重を同族の誼を通じて落ち延びます。 越後の龍:上杉謙信は永禄三年の関東出馬より沼田を抑えており、城主を失った沼田城は越後上杉氏の属城となります。
松本景繁・河田重親(謙信の寵臣:長親の伯父)・上野家成らを沼田に置いて沼田三人衆とし、関東鎮撫の前線基地:厩橋城と越後への連絡拠点としていました。 上杉謙信が在命の頃は上杉家の威勢も強く、武田勝頼から上野攻略を任されていた昌幸は虎視眈々とその時期を待っていました。

天正六年(1578)、 謙信が急死し、後継を巡って北条家からの養子:上杉景虎と 謙信の一門にあたる上田・長尾氏の長:政景からの養子:長尾顕景(上杉景勝)が【御館の乱】で対立します。沼田城も同じく北条方と長尾=上杉方の間で争います。
同五月、沼田は景虎擁護のために出張った北条の軍勢3万余が陥落させ、沼田城主に猪俣能登守を置き、藤田信吉・金子美濃守を城将に入れます。
しかし翌年には上杉景勝の勝利によって【御館の乱】は終結し、景虎は自刃して果てました。 ちょうど沼田城を手中に収めていた北条方はこの事態に動揺します。 北条氏康の子:氏秀(謙信の養子:上杉景虎)が国主になるはずだった越後一国が仇敵となってしまったわけです。
その動揺の様子は順次、岩櫃に入っていた真田昌幸にも伝わっていました。

 
● 真田昌幸の謀計

昌幸はこの動揺に付け込み、才覚を駆使した抜群の謀略をめぐらせます。 内には城将:藤田信吉・金子美濃守に内応を説き、 外には元信州先方衆の矢沢頼綱を総大将にして 沼田・名胡桃攻略へ出陣させます。

天正八年、
二月に、名胡桃城主・鈴木主水正重則の調略に成功、
三月に、北条勢が真田方:小川城に攻めかかるも城将:小川可遊斎が撃退、
四月に、名胡桃に入った昌幸の下に金子美濃守が降伏。
五月に、矢沢頼綱に包囲された沼田城は藤田信吉が開城。


この要害・要衝にある沼田城を簡単に手中に収めることに成功した昌幸の城裁きは鮮やかという他は有りません。
ところが会津に身を寄せていた沼田平八郎景義は金山城主:由良国繁をはじめ上州諸豪族に助勢を得て 天正九年(1581)二月、三千の兵を興し沼田城奪回を開始します。
平八郎景義の叔父にあたる金子美濃守泰清は事態に仰天し、 ことの成り行きを昌幸に報告します。
昌幸は金子美濃守が叔父としての立場を利用し景義に”城を明け渡す”と偽るならば、1000貫の恩賞を約束します。 平八郎景義は叔父:金子美濃守の涙ながらの言葉(芝居です;)と沼田城士の血判状(鶉の血で作った偽物)に安心して沼田に入城しますが、城内にて襲われ首を刎ねられてしまいます。
金子美濃守はこの謀殺劇で一躍大封を得、沼田城代にまでなります。
(しかしその最後は昌幸に遠ざけられて生涯を終えます・・・)

この事件で実質上、沼田より西に位置する利根・吾妻のニ郡は武田勝頼の勢力版図となります。 昌幸は岩櫃城代だった海野幸光、幸景兄弟も5ヵ月後に誅して一族で足場を固めます。
判官びいきの昌幸にもこのように過酷な仕置きを行った事実があるのはやはり戦国の慣わしというべきでしょうか。


● 武田氏の滅亡

天正十年(1582)、 南信濃の高遠城が織田信忠によって陥落した際、 昌幸は勝頼を岩櫃城に迎えて、険阻な地形を頼りに籠城する決意でした。おそらく小県〜吾妻〜沼田の連携でゲリラ戦を展開するつもりだったのだと思います。
籠城によって長期間織田軍を岩櫃に釘漬けにして疲れさせ、上杉・北条・毛利・長宗我部が動けば状況が好転、あわよくば勝頼を立てて甲斐に返り咲くという目論みだったようです。 このあたりは【表裏比興】【稀代の横着者】と悪名の目立つ昌幸ですが信玄亡き後も武田家のためには滅亡もいとわぬ覚悟が見られます。
しかし勝頼の自刃により武田家は滅亡しました。 三月に入り状況悪化の中、昌幸は急に備え 沼田城を守る矢沢頼綱にも兵糧を蓄え牢人衆を召抱えるよう指示。臨戦態勢を敷かせます。

三月下旬、信長は武田征伐の論功行賞を行います。 征伐軍副将:滝川一益は上野国:厩橋城主として派遣され、結果として昌幸は沼田を滝川一益の甥:滝川益氏に明け渡します。

昌幸は四月八日に信長に馬を送って誼を乞いなんとか織田家へ臣従に成功していたのです。 織田家の方針としては

”武田ゆかりの者は登用するべからず”

という状況でしたが昌幸は謀略を駆使し、織田信忠に真田と上杉・北条が繋がるのを恐れさせて、かえって真田を味方に引き入れるように仕向けます。
事は上手く運び、信長の仕置きにより昌幸は滝川一益の与力となります。上野国と信濃国小県郡・佐久郡は滝川一益の所領になりましたが一益は情勢不穏の上信州を考慮して国人衆に対しては懐柔政策をとりました。
昌幸も本領の戸石・岩櫃・小県を安堵されています。

 
● 本能寺の変〜沼田城奪還〜

しかし天正十年(1582)六月二日、 信長が本能寺に斃れると、事態はまた混沌にかえります。
北条家は織田家との誼を翻して敵対関係になったのです。氏直・氏邦は5万6千もの大軍を率いて上野に侵攻してきました。 一益は急を聞きますが、治めてまだ三ヶ月の上野で結束を固めるため昌幸をはじめ関東・上州諸侯に信長斃れるの報を打ち明けます。

これによってにわかでは有りますが一時的に諸侯と一益は団結し、武蔵国鉢形へ2万弱の軍勢を率いて出陣します。 六月十六日に衝突した際、一益は武蔵国境まで北条軍先鋒隊を切り崩します。

ですが三日後、北条軍の本隊・後詰が到着し、一益は神流川の戦いで北条氏邦に破れて厩橋城に退きます。 一益は上州・関東諸侯に人質を無条件で返し、領国に帰国することを告げました。その人柄に感じ入った諸侯達は別れを惜しんだといいます。 明智光秀への対応の遅れにあせっていた一益はこうして本領:伊勢長島城へと急ぎ帰国します。
(十三日に光秀は山崎で秀吉に敗れています。)
昌幸も別れを惜しみ、信之に木曽路口まで護衛を命じたといいます。

こうして甲信上州は北条・徳川・上杉の三つ巴の争いの場となります。このどさくさに紛れて昌幸は空き家となった沼田城を北条家よりも先に取り戻すことに成功します。 このあたりはやはり【表裏比興】の名にふさわしいめざとさが伺えます。(三河後風土記には【生得危険な姦人】とまで)

しかし北条軍は武田侵攻戦でほぼ無傷だったせいもあり甲信州にまで迅速に侵攻し、小県〜海野まで迫っていました。その数は総勢4万3千を超るといい、 小県の中山城は落とされ、沼田城は北条氏邦の軍勢の攻撃を受けています。
このとき北条軍の一手を迎え撃った沼田城代:矢沢頼綱は城に入ってまだ3ヶ月でありました。

 

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