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Vol 8. 砥石崩れ(vs村上義清)

上田原の戦いでは村上義清に苦杯をなめさせられ、甘利・板垣らの重臣を失った晴信であったが、これに乗じて信濃府中の林城(長野県松本市)主・小笠原長 時が、時機到来とばかりに動き出した。晴信の信濃侵攻によって圧迫されてきた長時は、上田原の戦いの二ヶ月後の四月十五日以降、繰り返し諏訪郡へ乱入して 気勢を上げる。加えて七月には諏訪西方四郡の矢嶋・花岡氏らが長時に応じて晴信から離反した。

晴信は七月十一日に甲府を出陣、十八日に上原城(同茅野市)へ入ると、休む間もなく夜を徹して軍を進め、塩尻峠に布陣する小笠原勢を急襲してこれを破っ た。引き続き九月には佐久郡へと軍を進めて前山城(同佐久市)を落とすと、一旦上原城へ戻った後に松本平へ進出し、長時の本拠・林城攻略に向け林城の南約 二里の地点に拠点となる村井城を構築して腰を据える。

ちなみに村井城は長時に属した国人・村井氏の居城であったが、
『高白斎記』同年十月条に「十月朔日癸卯二日甲辰酉刻向巳ノ方村井ノ城ノ鍬立致高白候。鍬五具。四日御普請初」
とあり、「鍬立致高白候」(鍬立高白致し候)すなわち鍬立(地鎮祭)の儀式を駒井政武に命じているところから、大幅な修築を行ったものとみられる。

天文十九年(1550)七月、晴信は林城に小笠原長時を破ると、長時は葛尾城(同坂城町)の義清を頼った。晴信 はこれを追って小県郡に入ると、郡内最大の要衝である戸石城(同上田市)攻略を目指して七千とも一万とも言われる兵を率いて城下に迫った。八月二十八日の ことである。当時、義清が高梨政頼と争いを起こしていたという状況があり、その隙に乗じたのであろう。しばらく両軍のにらみ合いが続いた後、九月三日に晴信は総攻撃に向けて陣を城の際へと移した。

戸石城は義清が小県郡の押さえとして築いたと言われる城で、天険の要害でもありまた郡中最大の堅城であった。さ らに相手は苦杯をなめさせられた記憶もまだ新しい義清、晴信ならずとも連敗するわけにはいかない。着陣前の二十五日には大井上野介信常・横田備中守高松・ 原美濃守虎胤らの上級将校に城の様子を偵察させており、二十九日には自身が出向いている。さらに真田幸隆に命じて周辺国人衆の調略も並行して進めさせるな ど、戸石城攻略に際して晴信は慎重の上にも慎重を期していた。

さて、九月九日に総攻撃を掛けたものの、わずか五百と伝えられる城兵の士気は高く、城は容易に落ちない。その間、幸隆の活躍で義清方の清野・須田両氏を寝返らせることに成功したものの、攻撃開始より二十日が経過しても城はびくともしなかった。さらに、晴信にとっては予想外の知らせがもたらされる。戸石城が攻められていることを知った義清は、高梨政頼と急遽和睦を結び、後詰めとし て救援に駆けつけてきたのである。義清は直ちに武田方の寺尾城(長野市)へ攻め掛かった。晴信は幸隆に寺尾城救援を命じたが間に合わず、これ以上城攻めにこだわるのは不利と見た三十日、前日に戻ってきた幸隆を交えてに退陣を視野に入れた軍議を開いた。結局は即刻退陣と決し、翌十月一日に武田勢は退却を開始するが、義清がこの機を逃すはずはなかった。義清は退却する武田勢に追撃戦を挑み、終日激戦が展開された。『高白斎記』に以下のように見える。
「十月小辛酉卯刻被入御馬。御跡衆終日戦フ。酉刻敵敗北」

記録に見える「被入御馬」とは「退陣なされた」の意、「御跡衆」とは殿軍(しんがり=最後尾の隊)のことであるが、「敵敗北」とはいかに武田方の記録とは いえ、身贔屓(みびいき)に過ぎる記述であろう。結果は逆に武田勢の大敗であった。上田原の大敗に続き、この戦いでも晴信は横田備中守高松という有能な将 を始め、千人に及ぶ兵を失ったという。村上方の死者は二百足らずと伝えられており、どう見ても完敗であった。この戦いが世に「戸石崩れ」と呼ばれるものである。

晴信の敗戦に喜んだのが、義清を頼っていた小笠原長時であった。長時は義清の応援を得て安曇(あずみ)郡平瀬に 兵を進めると、義清も十一月八日には小諸城(同小諸市)に入って武田方の野沢・桜井山両城(同佐久市)を攻める。対する晴信も同月十四日に若神子(わかみ こ・山梨県北杜市)まで出陣して駒井政武を海ノ口まで派遣するが、両軍にそれ以上の動きはなく、晴信は十九日に甲府へと戻っている。

戸石城は翌年五月に真田幸隆の調略によって武田方の手に落ち、以後武田氏の小県郡支配の拠点となった。これにより東信における村上義清の勢力は衰え、晴信は着々と信濃国人衆の調略を進めた。そして、ついに天文二十二年(1553)四月九日、晴信は義清の居城・葛尾城攻略に成功、力尽きた義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びていった。

by Masa

 

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