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戦国魂 今日の出来事

■【三村元親、毛利氏に背く】天正二年(1574)閏11月20日

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備中松山城主三村元親が毛利氏に背いたため毛利輝元・小早川隆景が出兵、備中小田に着陣する。

 三村氏は備中川上郡の国人で、戦国時代には成羽鶴首山城(岡山県高梁市)などを拠点として家親が勢力を振るいました。家親は天文二十二年(1553)、毛利元就の助けを得て猿掛城主・穂田(庄)為資を攻め降して以来、毛利氏傘下の国人として行動します。家親は毛利方として尼子氏との戦いに出陣しますが、尼子氏の勢力が衰えると、備中松山城(同)を本拠として美作侵略を開始しました。

 永禄八年(1565)五月、家親は美作三星城(同美作市)に浦上宗景麾下の将・後藤勝基を攻めますが、勝基の岳父宇喜多直家(当時は浦上氏の臣)の救援もあって攻略に失敗しました。家親は兵を引くと一転して高田城(勝山城・同真庭市)へと矛先を変え、城主三浦貞勝を攻め滅ぼして城を奪いますが、翌年二月、家親の美作進出に危機感を抱いた宇喜多直家の手によって美作興禅寺の陣中で暗殺されるという一大事が起こります。家親の長男元佑は穂田氏を嗣いだため、三村家はここに二男の元親が嗣ぐことになりました。

 永禄十年(1567)の春、父の無念を晴らすべく元親は二万の大軍を動員、宇喜多氏が新たに築いた明禅寺城(岡山市)に攻め寄せました。一旦城を奪ったものの、元親は直家の謀略に掛かって大敗を喫し、大きく勢力を削がれる結果となりました。元親はその後も毛利氏の傘下に属しますが、足利義昭の斡旋によって宇喜多氏と毛利氏が和睦すると、天正二年(1574)春、毛利氏から離反して織田信長に通じました。同年十月に元親離反の報に接した毛利輝元は元親討伐を決意、閏十一月になって小早川隆景とともに出陣しました。

 まず元親の属城・備中猿掛城(同矢掛町)攻略を目指した隆景ら毛利勢は、城から西へ二里の小田にこの日着陣しますが、後にこれを変更して本陣を若宮山へと進め、国吉城(同)の三村政親に攻め掛かりました。抗し切れないと判断した政親は降伏を申し出ますが隆景は許さず、攻撃の手を緩めません。大晦日の夜になって政親は、二十人の将士とともに密かに城を脱出して備中松山城へと逃れますが、翌元日に城は落ちました。その際隆景には珍しく、城兵を皆殺しにしています。

 士気揚がる毛利勢はこの後元親の属城を次々と落とし、天正三年三月、ついに元親の居城・備中松山城攻防戦が展開されることになります。