■【家康、秀吉と講和】天正十二年(1584)11月21日
徳川家康が浜松に戻り秀吉と講和、二男於義丸を秀吉のもとに送る。
天正十年(1582)六月、主君織田信長が本能寺に倒れた後、羽柴秀吉は信長の跡を嗣いだ嫡孫・三法師の後見人となりました。しかし、かねてより仲の悪かった柴田勝家との対立は決定的となり、翌年に勝家と近江賤ヶ岳に戦います。秀吉に敗れた勝家は北ノ庄城で自刃、さらに勝家に同調した信長の三男・信孝をも二男の信雄を上手く操って自害に追い込み、ここに秀吉は名実ともに織田家中におけるナンバーワンの座を手中にしますが、このあたりから雲行きが怪しくなってきます。
信孝を滅ぼしたものの、次は自分の番かもしれないと感じた信雄は徳川家康を頼りました。家康はこれを受け入れますが、この年の三月に信雄が秀吉に内通したとして三老臣(岡田重孝・津川義冬・浅井長時)を誅殺したことから、事態が伊勢を舞台に動き出します。
やがて秀吉と家康は尾張小牧(愛知県小牧市)で対峙、家康方がやや優勢となりますが、小競り合いの域を出るものではありませんでした。そこで秀吉は池田恒興の策を採り、恒興・森長可・三好秀次・堀秀政ら二万の兵をもって家康の本国三河を衝かせますが、長久手(同長久手町)で徳川勢の攻撃を受け大敗します。怒った秀吉は自ら出陣しますが、家康の巧妙な軍の進退にかわされ、直接の戦いがないまま時間が経過していきました。
ジリ貧になって士気が低下するのを恐れた秀吉は方策を一転、美濃加賀野井城(岐阜県羽島市)・竹鼻城(同)などの小城を攻め落とし、六月下旬に大坂へ戻りました。九月になって丹羽長秀の斡旋により講和の話が出たものの、その時は不調に終わっています。しかし十一月七日、桑名で酒井忠次らの徳川勢と対峙した秀吉は、十一日に突然信雄と矢田河原において会見し講和を結びました。
信雄は秀吉に、岡崎城で戦況を見守っている家康との講和をも勧めました。家康としては不本意な結果であったかもしれませんが、元々信雄に頼まれて出陣したわけで、信雄が秀吉と講和した以上、家康としては秀吉と戦う大義名分がなくなったわけです。家康も「二男於義丸を養子に貰って両家の親睦を図ろう」という秀吉からの申し出を受け入れて講和を決断、直ちに石川数正を秀吉のもとへ遣わして講和成立の祝いの言葉を述べさせ、この日浜松城へと戻りました。
家康は翌月十二日、約束通り於義丸と石川数正の子・勝千代、本多重次の子・仙千代を、浜松から大坂へと送っています。