【直江風雲録】 智将兼続参る!
Vol 8. 小田原攻めと奥州仕置
時間は少し戻るが、佐渡平定前の天正十六年 (1588) に景勝は再度上洛を果たした。この際景勝は従三位参議に叙任され、秀吉から豊臣および羽柴姓を授けられているが、直江兼続も同時に従五位下山城守に叙任され、同じく豊臣姓を許されている。すなわち、のちに天下に名を知られる「直江山城」がこの時点で誕生したわけである。
目を中央に向けると、豊臣秀吉は前年に島津討伐を終え、あとは小田原北条氏を残すのみとなっていた。北条氏政・氏直父子は表立って秀吉に敵対していたわけではないが、秀吉の上洛要請には従ってはいなかった。北条氏にも島津氏同様に多分にプライドがあったものか、秀吉の実力は十分に認めつつも、臣従するとなると家中の意見がまとまらなかったのである。氏政の弟・氏規が上洛して秀吉に拝謁するなど、決して反抗的な態度をとり続けていたわけではない。しかし、天下統一を眼前に控えた秀吉としては、氏政の上洛という事実が是が非でも欲しかったのである。氏直の岳父・徳川家康も北条氏に上洛を迫った。しかし、端から見れば待てど暮らせど北条氏の態度は「煮え切らない」のである。かくして秀吉は小田原北条氏征伐の意を確固たるものにする。
景勝はというと、この年九月に本庄繁長を出羽に向けて最上勢を蹴散らしているが、目立った戦いはなくこの年は暮れた。そして、翌天正十七年六月十二日、前回既に述べた通り、景勝は佐渡に渡って本間三河守・羽茂 (はもち) 高持らを討伐、佐渡を平定した。そして十月、何としても北条氏征伐の口実が欲しい秀吉にとって、正におあつらえ向きの事件が起こる。
天正十七年十月二十三日のこと、北条氏邦の家臣で沼田城代の猪俣能登守邦憲が、真田領の名胡桃 (なぐるみ) 城を謀略により突然奪った。もともと沼田領を巡っては北条氏と真田氏の間に少々複雑な事情があった。北条氏は領土の境界を接する真田氏と争い、秀吉の介入によりとりあえず沼田領の大半は北条氏の領有として一旦事は落ち着く。これは真田氏 (昌幸) にとっては不満な裁定であったが、相手が秀吉ではどうにもならず、名胡桃城は真田氏の領有とされたことで我慢する格好であった。そして秀吉は沼田領の大半を認める代わりに氏政あるいは氏直の上洛 (すなわち臣従) を求めたが、前述の通り北条父子はすぐに上洛しようとはしなかった。そんな中で事件は起こったのである。
この行為は秀吉が天正十五年に発した惣無事令 (大名間の私闘を禁じた法令) に明らかに違反しており、秀吉は激怒した。いや、内心はほくそ笑んでいたに違いない。小田原北条氏征伐の立派な大義名分が出来たからである。かくして秀吉は十二月には景勝をはじめ徳川家康・前田利家らを聚楽第に招いて北条討伐の作戦会議を開いた。
そして翌天正十八年 (1590) 年三月一日、秀吉は全国の大名を従え、自身は三万余の軍勢を率いて小田原へ進発、総勢二十万を超える軍勢で小田原城を包囲した。
景勝も兼続とともに正月下旬に春日山城を出陣すると、前田利家らと合流して次々と北条方の支城に攻めかかった。三月十八日に碓氷 (うすい) 峠を越えて上野(こうずけ) に侵入すると安中(あんなか) ・国峰・厩橋(うまやばし) の各城を落とし、四月二十日には大道寺政繁が拠る松井田城を、さらに武蔵へ侵入し六月十四日には北条氏邦が籠もる鉢形城、同二十五日には八王子城と立て続けに城を抜いた。これらの戦いでは兼続はもとより藤田信吉や甘糟清長らが活躍している。
北条氏政・氏直父子は小田原城に籠もるが、いかに天下の堅城といえども兵力差があまりにも大きく、結局は降伏開城という結末を迎えた。七月五日に城を明け渡すと氏政は程なく城下で切腹、氏直は家康の婿ということで一命は助けられ、高野山へと送られた。ここに戦国大名として五代にわたって君臨した小田原北条氏は滅ぶ。
秀吉は引き続いて下野宇都宮城へと向かい、関東以北の大名たちに改易・減封・所領安堵などの仕置きを行った。これは奥州仕置と呼ばれ、秀吉の天下統一事業の総仕上げである。小田原に参陣しなかった大崎義隆・葛西晴信・黒川晴氏らは改易され、遅参した伊達政宗は会津に手を出したことなどが咎められて減封された。その中で、後に上杉景勝が入ることになる会津黒川城には、伊勢松阪より蒲生氏郷が入封し四十二万石 (後に九十二石に加増) を領した。氏郷は「黒川」を「若松」に改め、名城・鶴ヶ城を築くとともに心血を注いで城下町を作り上げていった。
上杉景勝はというと、秀吉から出羽庄内地方 (山形県鶴岡市周辺) の支配を認められた。この地方は初め武藤 (大宝寺) 氏の所領であったが、もともと境界を接する下越の本庄繁長と関係が深く、武藤義興の養子・義勝は本庄繁長の二男である。
義勝は最上義光に恨みがあった。というのも、養父義興と先代の義氏は、いずれも最上義光に通じて裏切った家臣・東禅寺義長らに殺害されており、自身もまた庄内の地を奪われていたからである。そこで義勝は父である本庄繁長に加勢を頼み、庄内に攻め込んで首尾良く東禅寺義長らを滅ぼした。この挙に最上義光は「惣無事令」に違反していると秀吉に訴えるが、結局は上洛して申し開きをした義勝の言い分が通り、晴れて庄内の地に復した。ちなみに義勝の上洛中は兼続の京都屋敷に滞在していたという。
ここまでは良かったのだが、奥州仕置きの発令された翌年に庄内尾浦・藤嶋などで検地に反対する地下人 (じげにん) らが一揆を起こした。このいわゆる「出羽庄内一揆」は兼続が中心となって鎮圧されたが、義勝は一揆を扇動したとして咎められ、所領没収の上で大和に配流されたのである。
こうして秀吉から庄内領有を認められた景勝は兼続に庄内支配を委ねると、兼続は配下の者を代官として送り込み、以後およそ十年程の短い間ではあったが、この地にもしっかりと事績を残している。
by Masa