戦国魂は戦国時代・戦国武将をプロデュースする企画集団です。各自治体の地域活性化や企業コラボレーション、ものづくり、観光などの支援で社会に貢献します。

twitter

HOME > コンテンツ > 直江風雲録

Vol 12. 名執政・直江兼続

さて、戦いは一時大坂方と徳川方に和議が成ったものの、大坂城は和議条件により本丸以外の濠を埋められることとなり、その防御力は著しく低下した。その後複雑な事情はあったものの結局和議は破れて再び戦いが始まる。慶長二十年 (1615)五月六日、大坂方の後藤基次(又兵衛)・薄田兼相らが道明寺で、木村重成が若江で戦死するなど有力な将が次々と消え、真田幸村も翌七日に安居神社で討ち死にした。そしてついに大坂城も炎上、八日に豊臣秀頼・淀殿も自害し豊臣氏は滅亡した。

上杉勢は京都の守備を命じられたため戦闘には参加しなかったものの、兼続は五月三日より京都の南・八幡山に布陣していた。七日の深夜から八日未明にかけて、自分を高く評価してくれた豊臣秀吉の嫡子秀頼が、炎上する大坂城とともに滅びゆく姿が遠く見えたことであろう。その時兼続の脳裏には何が横切っていたのだろうか。
(画像下左:大阪城、下右:秀頼・淀殿が自刃した山里曲輪跡)

 

兼続は景勝とともに翌月米沢に帰陣するが、それも束の間、七月には嫡男景明が病没した。享年二十二という若さであった。景明は生まれつき病弱で眼病を患っていたといい、兼続もある程度は覚悟していたではあろうが、後継ぎの早世は五十六歳になった兼続にとってショックだったに違いない。

兼続の人物像が垣間見えるエピソードとして、以下の話が有名である。

※兼続の家臣で三宝寺勝蔵という者が下人を無礼討ちしたところ、その遺族たちは納得せず兼続に「無礼討ちにされるほどのことではない」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴え通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは本人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、その金で納得してくれないか」と頼んだが、遺族たちはあくまでも本人を返せと言い張る。すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣わす者がおらぬゆえ、すまぬがそなたたちが行ってくれぬか」と言って遺族三人の首をはね、その首を河原に晒した上で横に次の文言を書き付けた札を立てたという。

未得御意候得共、一筆令啓上候、三宝寺勝蔵家来何某、不慮の義に付相果候、親類共歎き候て、呼返し呉候様に申候に付、則三人の者迎に遣はし候、死人御返し可被下候
(いまだお目に掛かったことはございませんが、一筆したためさせていただきます。三宝寺勝蔵なる者の家来が不慮の義により亡くなりましたが、親類たちが歎き悲しみ、呼び返してくれと申します。つきましては三人の者を迎かえにやらせますので、死んだ者をお返し下さいますようお願い申し上げます)
恐々謹言 慶長二年二月七日 直江山城守兼続 閻魔王様 宜敷獄卒御披露

学者肌で穏和な性格という感のある兼続だが、聞き分けのない者たちに対しては、このような峻烈な一面を持ち合わせていたことがわかる。ちなみに「三宝寺勝蔵」を「横田式部」、「家来何某」を「茶坊主」として、同様の話を記したものもある。

※諸大名が居並ぶ席でのこと。伊達政宗は当事大変珍しかった慶長大判を懐から取り出して、皆に見せたが、その大判が回って来た際、兼続は扇で受け取りぽんぽんと跳ね返しながら見つめた。政宗が手に取ってよく見るよう言うと、兼続は「不肖兼続の右手は、戦場にあっては謙信殿の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものに触れるわけには参りませぬ」と言い、大判を政宗の元に投げ返した。政宗は一言も発することができなかったという。

※関ヶ原合戦後、兼続が江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違った際のこと。兼続が目礼もせず通り過ぎようとすると、政宗は憤慨し「陪臣の身で、六十万石の大名に挨拶もなく通り過ぎるとは無礼である」と激しく問い詰めた。兼続は振り返ると「なるほど後ろから見れば紛れもない政宗公。長年戦場ではお目にかかっておりましたが、いつも後ろ姿ばかり。正面から拝見するのは今日が初めてで、一向に気がつきませんでした」と言い返し、政宗を赤面させたという。

これらの話も兼続の言葉は「無礼」そのものと言えようが、兼続の頭脳の切れや機知に長けた一面を伝える逸話である。

※一人息子の平八景明が十六歳のとき、近江国膳所(ぜぜ)城主・戸田氏鉄(うじかね)の娘と縁談が整い、戸田家から朱塗りの膳椀・金蒔絵の道具が送られて来た。直江家でも相応しい道具を揃えなければと兼続に相談すると、「それはもってのほか。対等の道具を揃えなければ婚礼できないとあらば、早速破談いたす。武士の魂たる刀槍に錆さえなければ何も恥じることはない」と語気を強めたという。

兼続は普段の生活は質素であったと伝えられるが、それは単なる吝嗇(りんしょく=ケチ)ではなく、武士として不必要な部分に金を掛けることを嫌っていたことがわかる話である。

 

兼続は元和五年(1619)十二月十九日、江戸鱗屋敷にて病死した。享年六十。残念ながら兼続は後継ぎには恵まれなかった。先に本多正信の次男政重を娘於松の婿養子とするが、於松の病死により養子縁組は解消され、そして嫡男景明も早世したため、兼続の代で直江家は断絶することになる。景勝はかつて謙信がしたように、直江家の名を残さなかった。いや、景勝はそうしたかったのだろうが、兼続がきっぱり断ったような気がする。
(画像:於松が春日大社に奉納した灯籠)

 

 上杉家の重臣として、その一生を通じて景勝を支えた名執政・直江山城守兼続。最後にその人物評を『志士清談』より抜粋する。

「(前略)上杉家棟梁の臣として武功碩大なり。景勝越後より奥州に移し封ぜられて、兼続は米沢三十二万石を領知す。関ヶ原一戦の後、景勝会津を削られ、米沢三十二万石に封ぜられしかば、兼続に六万石を与へられけるを、五万石は家中の士に分け与へて、一万石を領す。又五千石を家中小身の輩に与へて其の身は五千石を受けたり。後、景勝新田を墾やして一万石を賜はる。兼続江戸、駿府に至れば、両将軍御懇意、御暇の節は時服等頂戴す。兼続壮大の男、弁舌よく御老中に対しても左のみ頭を下げ手を束ねず、あつぱれ武功の士と見ゆ。死後、将軍家より御香奠として白銀を下し賜はりぬ。小早川左衛門佐隆景、堀監物直政、直江山城守兼続、万事調練の武士、天下執柄の器量と秀吉公も御称美の者なり
(画像:米沢市林泉寺にある兼続夫妻の墓)

by Masa

 

▲ページトップへ