名将言行録によれば永禄三年(1560年)八月(佐野記によれば永禄二年)、長尾景虎(謙信)は関東管領・上杉憲政の要請により関東制覇をもくろむ北条氏康を倒すため出陣します。
沼田城、厩橋城をほぼ無傷で攻略し気勢を上げた景虎は上杉憲政の旧幕下の諸将に檄を飛ばして参集させました。
しかし同一月、関東の桶狭間といわれる河越夜襲で名実共に名将の誉れ高い氏康は是に対して長子(次男だが嫡男:新九郎夭折のため):北条氏政に三万余の軍勢を与え下野・唐沢山城を包囲させます。
この出陣は氏康に降った関東の諸将に対し、長尾景虎(謙信)に味方すれば北条家はこれを許さないという姿勢を示すためでもあります。
城主の佐野周防守昌綱は水の手が豊富な山城:唐沢山城(標高247M)の堅固さを頼りに石を投じ、丸太を落として籠城奮戦します。
このとき上杉憲政の居城だった上野平井城に入った景虎(謙信)はこの急を聞いて直ぐに8千の兵を率い唐沢山城救援に向い、同城西に陣を構えます。
同年二月十九日、景虎は後詰として唐沢山城近郊に着陣し城を囲む北条の大軍を一望します。
景虎(謙信)は 精兵を率いて景虎自らが督戦し、仮に旗本を打ち破って総大将:氏政を討ち取ったとしても、その折には既に唐沢山城は落城し、城主:佐野昌綱は
落命するであろう。それで後詰の任も果たせず、景虎は後の世の笑いものになる。
ここは運を天に任せ、敵中突破して城中の士気を上げることこそが肝要である。
と語ったそうで、 城の状態が限界に近いことを見て取り敵中突破を敢行します。
その折の景虎(謙信)は、なんと甲冑もつけず黒い木綿の道服のみを着、白綾の鉢巻を付け、黒馬に金覆輪の鞍を置いて十文字槍を携えて出陣に臨みます。
景虎(謙信)は城の南口から中央突破を行い 北条家3万余の攻囲軍の真っ只中を一文字に駆け抜けます。景虎(謙信)の勢いは鬼神も顔を背ける勇猛ぶりで、 あまりの勢いに攻囲軍はなす術を知らず、氏政の将兵は
『夜叉羅刹とは是なるべし』
と言い合って 誰一人手出しをするものがなかったといいます。
景虎(謙信)は氏政の本陣前を通過して無事唐沢山城大手門に着きました。景虎を城内に入れた佐野周防守昌綱は目の前で起こった奇跡の光景に、景虎の馬前で感涙したといいます。
この景虎の中央突破によって城方の士気が著しく高まりました。
氏政は西に景虎(謙信)率いる勇猛な軍勢を控えて、囲みをといて撤退します。
景虎は門を開けてこれを追撃し、北条方の首級1300余を討って唐沢山城の危機を救ったとされています。
この半ば無謀ともいえる景虎(謙信)の行動は後に関東中に知れ渡り、景虎(謙信)を毘沙門天の化身であるという神話へと繋がります。
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