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Vol.1 毘沙門天の化身 上杉謙信


 

越後の龍とも異名をとり戦国の聖将と謳われた上杉謙信の攻城戦。

(1)伝説の唐沢山城中央突破
(2)小田原城攻囲
(3)景虎改名
(4)関東の川中島:小田原包囲戦




 

 

●伝説の唐沢山城中央突破

 名将言行録によれば永禄三年(1560年)八月(佐野記によれば永禄二年)、長尾景虎(謙信)は関東管領・上杉憲政の要請により関東制覇をもくろむ北条氏康を倒すため出陣します。 沼田城、厩橋城をほぼ無傷で攻略し気勢を上げた景虎は上杉憲政の旧幕下の諸将に檄を飛ばして参集させました。

しかし同一月、関東の桶狭間といわれる河越夜襲で名実共に名将の誉れ高い氏康は是に対して長子(次男だが嫡男:新九郎夭折のため):北条氏政に三万余の軍勢を与え下野・唐沢山城を包囲させます。 この出陣は氏康に降った関東の諸将に対し、長尾景虎(謙信)に味方すれば北条家はこれを許さないという姿勢を示すためでもあります。
城主の佐野周防守昌綱は水の手が豊富な山城:唐沢山城(標高247M)の堅固さを頼りに石を投じ、丸太を落として籠城奮戦します。 このとき上杉憲政の居城だった上野平井城に入った景虎(謙信)はこの急を聞いて直ぐに8千の兵を率い唐沢山城救援に向い、同城西に陣を構えます。

同年二月十九日、景虎は後詰として唐沢山城近郊に着陣し城を囲む北条の大軍を一望します。 景虎(謙信)は 精兵を率いて景虎自らが督戦し、仮に旗本を打ち破って総大将:氏政を討ち取ったとしても、その折には既に唐沢山城は落城し、城主:佐野昌綱は

落命するであろう。それで後詰の任も果たせず、景虎は後の世の笑いものになる。
ここは運を天に任せ、敵中突破して城中の士気を上げることこそが肝要である。


と語ったそうで、 城の状態が限界に近いことを見て取り敵中突破を敢行します。

その折の景虎(謙信)は、なんと甲冑もつけず黒い木綿の道服のみを着、白綾の鉢巻を付け、黒馬に金覆輪の鞍を置いて十文字槍を携えて出陣に臨みます。 景虎(謙信)は城の南口から中央突破を行い 北条家3万余の攻囲軍の真っ只中を一文字に駆け抜けます。景虎(謙信)の勢いは鬼神も顔を背ける勇猛ぶりで、 あまりの勢いに攻囲軍はなす術を知らず、氏政の将兵は

『夜叉羅刹とは是なるべし』

と言い合って 誰一人手出しをするものがなかったといいます。 景虎(謙信)は氏政の本陣前を通過して無事唐沢山城大手門に着きました。景虎を城内に入れた佐野周防守昌綱は目の前で起こった奇跡の光景に、景虎の馬前で感涙したといいます。 この景虎の中央突破によって城方の士気が著しく高まりました。 氏政は西に景虎(謙信)率いる勇猛な軍勢を控えて、囲みをといて撤退します。 景虎は門を開けてこれを追撃し、北条方の首級1300余を討って唐沢山城の危機を救ったとされています。 この半ば無謀ともいえる景虎(謙信)の行動は後に関東中に知れ渡り、景虎(謙信)を毘沙門天の化身であるという神話へと繋がります。

 

●小田原城攻囲

景虎は越後の国主であり、遠い関東での長期戦は軍勢・国力双方の疲弊を招きます。乱立する関東の戦火を短期間で収束するために、景虎は北条氏の居城:小田原城を一挙に包囲・攻略することを選びます。
さすがの北条氏康も本拠地を包囲されれば各地の兵を収めて小田原城を守ると考えたのです。 つまり

”趙を囲んで魏を救う”

の故事に倣ったものと思われます。 関東に入った景虎は上野の明間・岩下・沼田の諸城を一気に抜き、迎撃に出た北条孫次郎と数百の兵を討ち取ります。
永禄三年(1560年)九月二十八日、 氏康は一族を挙げて兵を動かし、自身は武蔵河越に出陣します。 しかし、景虎との直接対決は避け牽制を繰り返しました。

景虎は小田原城攻略に際し大規模な兵力を必要としました。そこで無血開城した厩橋城から上杉憲政の旧幕下の諸将に檄を飛ばして参陣を促します。 上野・武蔵の諸将はこれに応じますが、関東北東の常陸・下野の諸将は北条か長尾・上杉のどちらに付くか決めかねます。北条氏康は関東きっての名将であり、景虎は越後の龍とも呼ばれる軍閥で、双方の実力をはかるのは難しかったと思われます。

そこで景虎は二十九日には龍渓寺に、十二月二十四日には武蔵岩槻(岩付・岩附)城主:太田三楽斎資正に北東の諸将の参陣仲介を依頼します。永禄四年(1561年)、厩橋城で越年した景虎は二月になると越後府内に詰める直江山城守実綱に参軍を下知します。三月になると参陣を渋っていた北東の諸将が厩橋城に陣します。

かくして関東諸侯は関東管領:上杉憲政の元に集い、 小山秀綱、小田氏治、那須資胤、佐竹義重をはじめ太田、小幡、大石、見田、白倉、忍(おし)、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、清党の旧上杉家家臣団はそれぞれに兵を引き連れ、連合軍の総勢は『松隣夜話』では7万余、『鎌倉九代記』『関八州古戦録』では11万3000といっています。(9万余の説も有り)

先鋒は岩槻城城主:太田三楽斎資正、忍城城主:成田長泰。 景虎は越後随一の猛将、柿崎和泉守景家を前衛に直江山城守、宇佐美駿河守など重臣を引き連れて厩橋城を出陣します。

氏康は河越夜戦以来の存亡の危機に対応を迫られます。同盟国である駿河:今川氏は当主義元が織田信長によって田楽狭間で討たれ国力は低下し、甲斐:武田晴信(信玄)は北信濃を攻めて景虎を牽制しますが、北条家に送った援軍は初鹿野源五郎率いる300の兵のみでした。

氏康は連合軍が未曾有の大軍であり、総帥が軍略無双の景虎であることから其の士気・陣容ともに野戦での決戦は不可能と考え、切り札である小田原城での籠城を選択します。 小田原城は100を超える支城・砦があり、既におびただしい武器・兵糧・弾薬・衣服が集積されていました。  

 

●景虎改名

三月にはいると景虎は鎌倉に入り、関東管領・上杉憲政の名跡をついで上杉姓を名乗り、
名は上杉憲政の一字を拝領し政虎と改めました。
同四日、将軍:足利義輝は上杉政虎(謙信)に対し、信濃の小笠原長時を助けて信濃に帰国できるよう計らうように命じます。
これによって政虎は信濃に出兵できる大義名分を手に入れることとなり、名高い川中島合戦へと発展します。
 

 

● 関東の川中島:小田原包囲戦

政虎は上杉の名跡を継いで名実共に総大将となり、小田原近辺の酒匂川に陣を張ります。

三月十三日の午前に攻撃は開始され、先鋒:太田資正は小田原城:蓮池門を攻撃します。 籠城方は門を固く閉ざして防戦するのみでした。
この際、政虎は兜をつけず、白頭巾で頭部を包んで朱の軍配を持ち、 指揮下の軍勢に自ら下知して回ります。
連合軍の将兵は唐沢山城の中央突破の再現を目の当たりにし、政虎に対し畏怖の念を抱き奮い立ちました。
政虎は柿崎和泉守景家、直江山城守実綱を左右に従え、手勢を率いて太田資正の攻撃する蓮池門まで進んで自らの姿を籠城方に晒し挑発します。 普通の城ならば門を開けて討って出ることは間違いありませんがそこは戦の駆け引きを知る氏康、この挑発に乗らず守勢を徹底させます。

やがて昼になり、政虎は蓮池の端に馬を繋ぎ、持参した弁当を広げて茶とともに食します。 関東の英雄・北条氏康が籠城する天下の名城小田原城の面前で昼食をとったということです。
ついに北条方の金沢という武士が十挺の鉄砲隊で二度、政虎目掛けて撃ち掛けます。 しかし弾丸は政虎の鎧の袖は撃ち抜きますが政虎には当たりませんでした。
政虎はその状況でゆうゆうと茶を三杯喫したといわれています。 (『名将言行録』『松隣夜話』)

籠城は続き、攻囲軍は城を包囲し攻撃を続けましたが戦果は得られません。 連合軍は小田原城下に放火などして挑発しますが、氏康は門を固く閉ざしてこれに応じませんでした。
政虎は兵・荷駄の輸送に際し各地で紛争が起こっていることを聞き、伝馬・宿送などについて制札を与えて秩序回復に努めます。 昨年水害にあった地方には徳政令を発布しています。

しかし、十万余の大軍。政虎はかつてこれほどの軍勢を率いたことがなく、関東の諸将は自らの居城から補給を行えますが越後勢は上野:厩橋城からの補給のみでした。 厩橋城は謙信の関東経略の前衛基地として数万の軍勢を収容できる巨城でしたが籠城戦の長期化で徐々に兵站線の維持が困難になってきます。 小田氏治、佐竹義重は長期戦によって攻囲軍内に北条に内応するものが出る可能性を指摘し、連合軍の退陣を勧めます。

六月初め、政虎は足利義輝から関東出兵をねぎらう御内書を受けましたが、 同二十一日、政虎は体調を崩し厩橋城を経て越後に帰国します。約10ヶ月にわたる第一回関東遠征はこうして集結しました。

この後、氏康は政虎帰国を見計らい再び関東侵攻を開始します。

 

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