● 出羽の防衛ライン
最上家では、畑谷城での玉砕と援軍の敗北、小野寺義道の庄内侵攻で騒然となります。
最上領は上杉領に挟まれた形であるため、最上義光は山形城を中心とした西南へ扇型に守り固め、
九月十五日には白石城に在陣していた”犬猿”の甥:伊達政宗に援軍を要請します。
掛入石仲中山口を進む上杉勢には上山城に里見民部を、
湯沢城奪還を狙う小野寺義道には武勇で名高い楯岡満茂ら数千の兵を割いて備え、
狐越街道を北上する直江本隊にはそれを阻む長谷堂城に重臣で
最上四天王の一人:志村伊豆守光安と出羽の豪族で武名鳴り響く鮭延秀綱ら軍勢5千余を入れました。
義光は上方に向かった徳川家康の勝利を一心に願い、乾坤一擲の戦いを期して籠城の態勢を整えます。
● 山形城の南の要:長谷堂城
長谷堂城は山形城の北東約8キロに位置します。
山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側の『城山』と呼ばれる小さな山(標高229m)の頂上に築城されていました。
最上四十八館の一で、山形から米沢〜白鷹〜置賜に抜ける狐越街道からの上杉勢に対する備えの要地でした。
長谷堂城は築城時期が不明ですが伊達文書には「1514年最上氏と戦って長谷堂を陥す」とあり、
この頃には街道を押さえる要衝・要害の地として存在していたようで、別名:亀ヶ崎城とは「亀の甲羅の如き堅城」という意味からきていたようです。
長谷堂城の戦いの折は籠城する志村伊豆守光安が城主でした。
慶長当時は城に水堀や曲輪群を備え、
さらには城周りに泥の深い田や沼地も広がっており自然と天然の要塞となっていました。
水堀や曲輪群を備えてはいますが小城でもあり
長谷堂城合戦での堅固な守りは地形を生かした城としての効果が大きかったようです。
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