戦国魂について 戦国時代を現代風にアレンジ 戦国漫画 戦国グッズ

長谷堂城の戦い(出羽合戦)V〜最上家臣団の力闘〜長谷堂城攻防戦 壱〜


もう一つの関ヶ原(天下分け目)と言われた、奥州争奪戦の攻城戦。


(1)兼続、三方より山形城を望む
(2)出羽の防衛ライン
(3)山形城の南の要:長谷堂城
(4)直江兼続、長谷堂城を包囲す




 
●兼続、三方より山形城を望む

最上方の決死の抵抗を退けて畑谷(畑屋)城を攻略した直江山城守兼続率いる上杉勢本隊は、最上家の援軍をも撃破して気勢を上げました。 兼続は庄内から進む与板衆:志駄義秀らが3000、掛入石(かくれいし)仲中山口へ向かった篠井康信、横井旨俊ら4000をはじめ 置賜(おきたま)郡から小滝口、大瀬口、栃窪口に進む二手に分かれた別働隊と合流し最上氏の本拠地:山形城を包囲する計画を進めます。

一方、小野寺義道も上杉勢の勝利の勢いに呼応するように最上領:湯沢城を包囲して仙北・庄内を争った仇敵最上氏の背後を扼します。 会津上杉家はこの合戦を西軍の旗頭:石田三成と共に戦い抜き見事勝利しなければ、それはすなわち天下分け目の合戦での敗北をも意味します。

当時、石田三成率いる豊臣恩顧の諸軍勢は伊勢・美濃・北陸の越前を固めて家康に味方する勢力を駆逐しながら東進していました。 上杉家もそれに連携してまずは飛び地となった領国を、その接点となる山形城を攻略してまとめてから、伊達を牽制しつつ 豊臣方の佐竹・相馬家と連合して宇都宮に駐屯していた北への抑え:結城秀康を討って家康の本拠地:関東への侵攻を考えていたことでしょう。

兼続は謙信によって武名天下に轟く名門上杉家の命運を賭けて是が非でも勝利する決意で山形城を目指します。


● 出羽の防衛ライン

最上家では、畑谷城での玉砕と援軍の敗北、小野寺義道の庄内侵攻で騒然となります。
最上領は上杉領に挟まれた形であるため、最上義光は山形城を中心とした西南へ扇型に守り固め、 九月十五日には白石城に在陣していた”犬猿”の甥:伊達政宗に援軍を要請します。

掛入石仲中山口を進む上杉勢には上山城に里見民部を、 湯沢城奪還を狙う小野寺義道には武勇で名高い楯岡満茂ら数千の兵を割いて備え、 狐越街道を北上する直江本隊にはそれを阻む長谷堂城に重臣で 最上四天王の一人:志村伊豆守光安と出羽の豪族で武名鳴り響く鮭延秀綱ら軍勢5千余を入れました。 義光は上方に向かった徳川家康の勝利を一心に願い、乾坤一擲の戦いを期して籠城の態勢を整えます。


● 山形城の南の要:長谷堂城

長谷堂城は山形城の北東約8キロに位置します。 山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側の『城山』と呼ばれる小さな山(標高229m)の頂上に築城されていました。 最上四十八館の一で、山形から米沢〜白鷹〜置賜に抜ける狐越街道からの上杉勢に対する備えの要地でした。

長谷堂城は築城時期が不明ですが伊達文書には「1514年最上氏と戦って長谷堂を陥す」とあり、 この頃には街道を押さえる要衝・要害の地として存在していたようで、別名:亀ヶ崎城とは「亀の甲羅の如き堅城」という意味からきていたようです。

長谷堂城の戦いの折は籠城する志村伊豆守光安が城主でした。 慶長当時は城に水堀や曲輪群を備え、 さらには城周りに泥の深い田や沼地も広がっており自然と天然の要塞となっていました。
水堀や曲輪群を備えてはいますが小城でもあり 長谷堂城合戦での堅固な守りは地形を生かした城としての効果が大きかったようです。


● 直江兼続、長谷堂城を包囲す

■九月十五日
兼続は長谷堂城のそばにある菅沢山に本陣を置き大森山にも兵を展開させて長谷堂城を包囲しました。 その数は長谷堂城の籠城方をはるかに上回るおよそ20000余。 兼続は伊達勢への抑えとして要害:仙道二本松城を守る秋山昌綱に

『十三日には畑谷(畑屋)城を攻め落とし、敵を撫で斬りにして城主:江口五兵衛父子など500余を討ち捕らえて、  十四日には最上氏の居城に向かい山形近辺の城を二、三降伏させた』

と書状を送っています。 この書状からも迅速に最上氏を討ち、国内を固めて伊達家を抑え、関東を扼するという兼続の自信が伺えます。

この日、兼続は長谷堂城に総攻めを下知し、謙信以来の恐れを知らぬ上杉勢が長谷堂城に押し寄せました。 900余の上杉勢が西の大手口と北の八幡崎口に押し寄せます。 最上軍も城の外に出て応戦、ぬかるんだ深田で合戦が繰り広げられました。鉄砲の応酬と長槍での押し合いで一進一退が続き、初日の合戦は双方ともに引き上げます。

一方で、山形の最上義光は弟の楯岡甲斐守光直と三男清水大藏大夫義親に兵800で須川方面から北西に迂回させ上杉の背後を襲い、籠城方との挟撃を狙います。 しかし、上杉の軍監、仙道衆:水原親憲はこの迂回・奇襲を未然に察知して須川に伏兵を置きました。
そうと知らぬ最上奇襲部隊は、渡渉中に上杉勢の鉄砲隊に不意をつかれ300余を討ち取られて後詰に失敗。 甚大な被害を出して後退します。 この配軍はかつての川中島での信玄と謙信の啄木鳥の形に似ており、謙信が八幡原に出て迎撃したような上杉勢の快挙でした。

一方、分遣隊として狸森を抜けて長谷堂に向かっていた倉賀野綱元率いる900の上杉勢は80名を指揮する最上の楯主坂重内のゲリラ的山岳戦に悩まされ前進することが出来ませんでした。 上杉勢はゲリラを包囲しつつ前進してようやく長谷堂にたどり着きます。しかし、楯主坂重内はなおも長谷堂城には入らず山岳地帯を暗躍して直江兼続の本陣である菅沢山後方を扼します。

一歩も引かない最上家臣団と上杉:直江兼続との死力を尽くした国防戦の始まりです。

 

一覧へ戻る



 

この文章等の転載は戦国魂までご一報ください。

 

Copyright2005 SENGOKUDAMA.Project All Rights Reserved.