●犬伏の別れ
時を同じく、真田昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)も主筋:徳川家康の発した号令の下に集い、沼田を出ます。
家康の三男:徳川秀忠の率いる軍勢約3万8千に合流すべく下野:宇都宮城へ向います。秀忠の軍勢は徳川家の中でも
旗揚げ以来、姉川・三方ヶ原・小牧長久手を経た旗本を中心とした精鋭と呼べるものでした。
家康はまだ武将としての名を持たない秀忠に会津討伐軍の豊臣恩顧の大名を指揮するのは困難だと考え、
また三成との抗争で秀忠が天下を担うに足る武功を立てさせるため合戦の主軸を譲ったのでしょう。
ところが七月二十一日、真田親子が宇都宮城の手前:犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着します。
昌幸は三成とは姻戚関係で義兄弟でもあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っている)、
幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)です。
何より昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の遺恨が残っており、家康を嫌っていたようです。
しかし、長男の信之は神川合戦の後、かねてからその人物に傾倒していた家康の下に秀吉の取り成しで仕えることに成ります。
家康は神川での遺恨を信之には向けず、かえって寵愛し信之に妻として
稲姫(後の小松殿。徳川家の重臣:本多忠勝の娘)を家康(秀忠の説も有り)の養女としてから娶らせます。
この処遇を見ても家康の信頼は明らかで、感じ入った信之は徳川親派となりました。
(家康は関東・甲信州での大名間との結びつきを強くし秀吉に対抗しようという考えがあったからとも思われます。)
3人の親子は長い激論の結果、昌幸・幸村は豊臣秀頼方に、信幸は徳川方にそれぞれ袂を分かち離縁します。
協議の途中、武将・河原綱家は様子が気になって部屋の戸を開け伺いたてたが、昌幸は
『何人も部屋には入るなと申し付けたはず!』
と履いていた下駄を投げつけ、河原綱家はこれを顔に受けて前歯を砕かれたといいます。
これは昌幸が西軍・東軍どちらが勝っても真田家滅亡を防ぐ生き残りの選択で『犬伏の別れ』とよばれます。
本来、この選択はおよそ武家の忠孝の道に反しており、真田家の都合の良い考え方です。
徳川家との縁戚関係と家康の信頼があればこそ信之は家康方として関係を保持できたのだと思います。
昌幸はこの戦いで徳川秀忠の主力4万余を上州に釘付けにし関ヶ原での三成の合戦を有利に導こうと考えます。
勝利の暁には真田家に大封を得ようという戦国武将らしい発想を持っていたようです。
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『沼田日記』の小松殿(稲姫)
昌幸:信繁(幸村)は『犬伏の別れ』の後、直ぐに手勢を取って返し、自領に引き返します。
途中、信之の沼田城に逗留しようとしますが信之の妻、小松殿(稲姫)の使者は入城を拒否します。『沼田日記』では昌幸の将兵は怒って門を破ろうとすると
『力ずくで開門とは何事じゃ 殿(信之)ご出陣の留守中に狼藉に及ぶとは曲者に違いない。
女なれどもわらわは伊豆守(信之)の妻、本多中務(ほんだなかつかさ:本多忠勝)が女(むすめ)。
内府御女の称号を許されている。この城へ手をかけるものあらば、一人も漏らさず討ち取れ!』
と、緋縅(ひおどし)の鎧をつけ、薙刀を掲げて城より一括します。昌幸は孫の顔が見たいと小松殿に懇願しますが小松殿は頑として聞き入れず、
昌幸はかえって
『頼もしきかな。武士の妻はこうありたいものじゃ』
とウィットに富んだ返事をして野陣し、上田に向ったそうです。
その後、昌幸が上田の途中、正覚寺で休息をしたところ、小松殿が子を連れて現れ面会する機会を作った。昌幸、信繁父子は小松殿の才覚と人となりに感服したといわれています。
昌幸・信繁は沼田を回って鳥居峠〜真田郷を経て大笹の関所に差し掛かると秀忠の命を受けた地侍の反抗がありますが信繁が是を斬り捨て、無事に上田にたどり着きます。
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