● 戸石城:開城
秀忠は真田信之に上田城の支城:戸石城攻略を命じますが、幸村はあっさりと城を信之に開城し、上田城に引き払います。
『真武内伝』ではこれは昌幸が信之に手柄を立てさせるために行った処置であるとしています。
無血で戸石城に入った信之はそのまま城の守備につきます。徳川勢の意気は大いに高まりますが関ヶ原合戦はあと十日で始まります。4万近い軍勢が上田から美濃まで到達するには十日はかかるため、昌幸は
”我が策成れリ”
と、ほくそ笑んだに違いありません。昌幸は七月二十三日から上田城に戻り、既に籠城の手入れは万全、秀忠の本隊を上田城で待ち構えます。
秀忠は上田城近辺に時節が収穫期であったので苅田戦法を用いました。籠城兵は普段は農民として田畑を耕すのでその苦労の結晶、収穫を敵に奪われるのを許すわけにはいきません。なにより合戦後の食料に事欠くため城方は討って出る事が多いのです。城兵が討って出ると苅田部隊の後方から攻撃部隊が押し出して城兵を包み討ち、そのまま城へとなだれ込む戦法です。
● 二度、徳川勢を破る
攻撃部隊は苅田戦法によって、作戦通り突出した上田城兵を押し包み、勢いを増して城へなだれ込みました。徳川の誇る旗本の精鋭たちは功名を争い、上田城の外構えまで肉迫します。
この時、城門が開け放たれ城兵が討って出ます。徳川勢は不意をつかれますが秀忠の督戦の下、上田七本槍と呼ばれる旗本7騎が踏みとどまり、多勢も助けて徐々に真田勢を押し返し始めます。
真田勢はついに複雑な町家に逃げ込み徳川勢はこれを追います。が、突如上田北西にある虚空蔵山の林から真田の伏兵が現れ鉄砲を撃ち掛けて染屋台の秀忠の本陣におそいかかりました。
虚空蔵山の銃声にあわせて今度は上田城:大手門が開き鉄砲を撃ち掛けて後、幸村率いる一隊が猛然と徳川勢に襲い掛かります。
徳川勢は大軍であるがゆえに複雑な町家の狭い隘路に
封じられ鉄砲の的になってしまい城壁を登った兵士達も第一回上田合戦と同様、鉄砲でことごとく撃ち落されました。
秀忠は続々と援兵を送りなんとか混乱を収拾しますが、
頃合になると幸村を始め、城兵はこぞって上田城に戻り固く門を閉ざして防戦に切り替えます。
秀忠は全軍崩壊を食い止めたものの、最精鋭部隊の旗本の大軍を投入したにもかかわらず兵力差からは考えられない苦戦を強いられました。
兵の疲労・士気の低下は深刻であり、事態の収束のため本多正信は大久保忠隣の旗奉行:杉文勝、牧野康成の旗奉行:贄掃部に死罪を申し付けます。
秀忠はかくして上田城攻略をあきらめ、同八日に殿軍を上田に置いて小諸城を出発。多くの落伍者を伴う強行軍で関ヶ原へ急行しました。
同17日、秀忠は木曽路の妻籠で関ヶ原合戦の東軍勝利の報を聞いています。
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