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沼田城戦史U〜十月の上甲信州の情勢〜三ツ巴争奪戦〜


天正十年(1582)六月二日、 本能寺の変で織田信長が討たれると上・甲・信州に駐軍していた織田軍司令官:滝川一益・河尻秀隆・森長可らは浮き足立ちます。
滝川一益は北条の大軍に破れて伊勢へ逃れ、河尻秀隆は地侍に謀殺されてしまいます。 森長可は信忠までもが本能寺の変で自刃したことを知り海津城を中心とする川中島四郡20万石を打ち捨てて本領の美濃兼山城に戻ります。
ここに空地を巡っての三ツ巴争奪戦が展開されることになります。

(1)北条の上甲信侵攻と昌幸の遊泳術
(2)昌幸離反
(3)越後:上杉景勝の南下
(4)家康の浜松出馬と黒駒合戦




 

●北条の上甲信侵攻と昌幸の遊泳術


 六月末、関東:北条氏政は織田の武田征伐に遅れを取ったがゆえに、温存していた軍勢を一気に上甲信州攻略に繰り込みます。 その数、56000もの大軍です。 小田原を発し上野へ進む北条氏直は小県:佐久地方を経由し北信濃へ、鉢形城からは北条氏邦が、小田原からはさらに 別働隊として北条氏忠がそれぞれ甲斐に雪崩れ込みます。

空城となった沼田城を無血開城した昌幸は矢沢薩摩守頼綱を城代に置き、自らは岩櫃に入って戸石などの支城を固め上杉景勝の動向をうかがいます。 しかし、間髪いれずに北条の軍勢は勢多郡の猫城・樽城に兵を集め沼田攻略の準備を行います。

既に沼田の南に位置する猫山城、津久田城、長井坂城はことごとく北条の手に有り沼田城を守る真田の支城・砦に迫っていました。 矢沢頼綱は城を固める時間がなく中山右衛門尉を先鋒として城将:金子美濃守、恩田越前守、発知左衛門五郎、塚本肥前守を出陣させ、北条勢の先手の鋭鋒を挫こうとします。

しかし、北条の伏兵・挟撃を受けるとまっさきに金子美濃守は戦場を離脱、突出した中山右衛門尉は諸将に見捨てられて討死。 真田勢は敗走します。 頼綱はあまりにずさんな諸将の連携を危惧して沼田城の支城:阿曾・川田・長井坂をそれぞれ単独で死守するよう厳命します。 沼田に来て3ヶ月しかない頼綱は打開策として

諸将が自らの力でしか防戦できない”

ように仕向け、かえって奮戦を促したわけですが、沼田城の危機的状況は加速します。 昌幸は上杉・北条・徳川の3方の侵攻を受けることを恐れ、 七月十二日に小県郡海野へ着陣した北条氏直に出仕・臣従します。 真田家は北条軍の信濃侵攻の先手を務めることになりました。

北条家は上野国の完全支配を目論む一方で、 七月十三日には甲斐国都留郡で武田旧家臣・国人衆への糾合を煽動します。冒頭でも記した様に甲斐では国人一揆が起こり川尻秀隆は排除され甲斐は空白地となっていました。
氏直は川中島で上杉景勝と対陣しつつ小県:佐久地方の国人衆の懐柔を図り、万全を期していよいよ甲斐に進軍します。

 
● 昌幸離反

しかし、九月二十六日に昌幸は一転して北条家から離反、大久保忠世と旧交のある依田信蕃を仲介に徳川家に臣従します。 上野国厩橋城では北条氏が依然、国人衆の抱き込みを続け、上州沼田衆・吾妻衆も徐々に北条氏に帰属しはじめました。

しかし、昌幸は徳川家康を頼りに沼田を堅守する構えを崩しませんでした。 昌幸にとって沼田は真田家が生き残るための外交の切り札と考えていたのでしょう。 上田〜岩櫃〜沼田の自領の連携だけは崩したくない思いが沼田を目指す北条より、甲信経略を目指す徳川を選んだのだと思います。

徳川家にとっても信濃の実力者:真田家が持つ沼田・小県の領国は甲信防衛の構想のためにも味方に引き入れるのは極めて有益でした。


● 越後:上杉景勝の南下

一方、越後の上杉景勝は六月十三日〜二十六日に北信濃諸侯を味方に引き入れて、七月初めには信濃に5000の兵を率いて出陣し 海津城を奪取、斉藤朝信を海津城にいれ川中島へ進出します。小諸城に入った北条氏直の軍勢は八幡原に陣を敷きかつて謙信と信玄が対峙したように越相両軍がにらみ合います。
しかし、氏直の軍勢は甲斐:若神子に向い、景勝は川中島四郡を平定、村上景国を置いて越後に帰国します。 この帰国は手を焼いていた新発田重家の反乱と、越中の柴田勝家・北信濃の森長可・厩橋城の滝川一益との連戦で軍勢が疲労していたためと思われます。

 
● 家康の浜松出馬と黒駒合戦

浜松にいた徳川家康も信長の弔い合戦が秀吉によって完了したと見るや六月十二日から前年帰順していた岡部正綱に甲斐の旧武田家臣団の抱き込みを命じます。それに呼応した依田信蕃を案内に酒井忠次は3000の兵で伊那郡:高遠城を抑え甲斐に向けて進軍。
家康は本多忠俊・岡部正綱を先鋒として甲斐に派遣し、自らも軍を率いて八月十日に新府を抑えました。新府の徳川勢8000と若神子の北条勢およそ50000が対陣します。

八月十二日、小田原よりの別働隊として甲斐:勝山城に入っていた氏康六男:北条氏忠、氏康九男:氏光、氏繁次男:氏勝は10000の兵を率いて御坂峠を越えて徳川の背後を扼し挟撃を狙います。 徳川の将:鳥居元忠は黒駒でこれを捕捉し2000の兵で撃破することに成功します。

この黒駒合戦によって北条勢は約300の死傷者を出して挟撃を断念、大軍といえども徳川勢の前線においそれとは手を出せず、戦線は3ヶ月近く膠着します。

 

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