● 昌幸離反
しかし、九月二十六日に昌幸は一転して北条家から離反、大久保忠世と旧交のある依田信蕃を仲介に徳川家に臣従します。 上野国厩橋城では北条氏が依然、国人衆の抱き込みを続け、上州沼田衆・吾妻衆も徐々に北条氏に帰属しはじめました。
しかし、昌幸は徳川家康を頼りに沼田を堅守する構えを崩しませんでした。 昌幸にとって沼田は真田家が生き残るための外交の切り札と考えていたのでしょう。 上田〜岩櫃〜沼田の自領の連携だけは崩したくない思いが沼田を目指す北条より、甲信経略を目指す徳川を選んだのだと思います。
徳川家にとっても信濃の実力者:真田家が持つ沼田・小県の領国は甲信防衛の構想のためにも味方に引き入れるのは極めて有益でした。
● 越後:上杉景勝の南下
一方、越後の上杉景勝は六月十三日〜二十六日に北信濃諸侯を味方に引き入れて、七月初めには信濃に5000の兵を率いて出陣し 海津城を奪取、斉藤朝信を海津城にいれ川中島へ進出します。小諸城に入った北条氏直の軍勢は八幡原に陣を敷きかつて謙信と信玄が対峙したように越相両軍がにらみ合います。
しかし、氏直の軍勢は甲斐:若神子に向い、景勝は川中島四郡を平定、村上景国を置いて越後に帰国します。 この帰国は手を焼いていた新発田重家の反乱と、越中の柴田勝家・北信濃の森長可・厩橋城の滝川一益との連戦で軍勢が疲労していたためと思われます。
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