● 真田のゲリラ戦
矢沢頼綱は寡兵で籠城、三日間城を守り抜き、北条勢は沼田の険は強襲では落ちぬと判断し阿曾に兵を引きました。
頼綱はこれを逃さず、かえって阿曾に夜討ちを掛け優勢に気を抜いていた北条軍に打撃を与え沼田城の守りを固めました。
一方、昌幸は、依田信蕃と共に徳川勢として碓氷峠・松井田城などを攻めて信濃の北条軍と上野との兵站線を破壊します。
さらに前日、北条軍の退路を断つため密かに沼田〜厩橋を繋ぐ津久田城を攻略するというゲリラ戦が行われました。 北条軍はゲリラ戦に苦しみ沼田での短期決戦をあきらめ兵をまとめて厩橋城(前橋城)に退却しました。
八月二十二日には南信濃の木曽義昌が徳川方に付きます。 さらに、長期対陣する北条軍不在の間に佐竹義重が関東を扼し始めます。 かくして北条家は、この膠着に利なしと判断し十月二十九日に徳川家との和議を成立させます。
和議の内容は
●甲信は徳川家康の領国とする
●上野は北条家の領有とし、上州:沼田の真田昌幸には代地を与えることする。
●家康の娘を北条氏直に嫁がせる
などでした。
● 神川の対に矢沢薩摩の軍略あり
天正十一年(1583)八月、北条氏照は上杉家の手に渡っていた厩橋城を攻め、城主:北条高広をおって、沼田攻略の機会を狙っていました。 翌年、家康は秀吉との小牧長久手合戦が膠着すると北条との盟約を強固にして後顧の憂いをなくそうと考えます。 四月、家康は昌幸にこの和睦の条件を実行するよう通告します。
しかし、沼田を
『上田と双璧をなす最重要拠点』
と考える昌幸はこれを拒絶、 徳川家との神川合戦へと突入します。
天正十三年(1585)八月、徳川勢は北上して昌幸と神川で合戦しますが敗れて大きな被害を出します。 その後、真田〜徳川は膠着状態〜真田のゲリラ戦へと移り長期戦に入ります。
この動きに呼応して九月、北条氏直が小田原から氏照、氏邦と共に30000の軍勢を動員、 昌幸から後詰を期待できない沼田攻略を開始します。 氏直は軍を2手に分け、氏照は吾妻:今井峠から、自らは勢多郡から沼田領に侵入しました。
頼綱は上杉景勝の後詰を得てここでも積極的に城外での奇襲〜取って返して城に籠るという真田家のお家芸:【ゲリラ戦法】をとり、 北条軍に効果的な攻撃を行います。 頼綱が再び1000の兵を率いて城を出たという報を聞いた氏直は、猪俣能登守に3千の兵を与え迎撃させます。頼綱は、猪俣能登守に攻められて多勢に無勢、名胡桃に逃走しました。
猪俣勢は仇敵:頼綱を追いつめようと、薄根ヶ原まで追い立てますが、榛名の森にいた伏兵と、頼綱の反転:挟撃を受け、更に名胡桃城より鈴木主水正も門を開けて討って出ます。 猪俣勢はまたしても壊走し頼綱は首200を挙げる快勝を収めます。 猪俣能登守の敗退を知った氏直は怒り、沼田城に総攻撃をかけます。
しかし頼綱は、城下の出入り口7箇所に木戸を設けて北条軍を誘い込み木戸を落として火を掛け、孤立した先手を包囲殲滅します。農民までも動員して徹底されたこのゲリラ戦はまたも北条軍に打撃を与えました。 吾妻:今井峠から沼田に向った氏照の軍勢は沼田の支城:川田城に攻め寄せます。ですが、城壁まで近付くと川田城は、もぬけの殻で、寄せ手は北条の大軍を前に城を放棄したと考え入城しました。
ところが、川田城の要害:大竹に突如沼田勢が出現し北条軍は不意を突かれてここでも損害を出してしまいます。 北条氏直に続き、氏照までも戦果無く大きな損害を出してしまい、士気の低下と共に小田原に退却しました。
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