● 会津越後での小競り合い〜小山軍議
七月二五日、 家康は三成挙兵の報に接し、駐屯地:小山にて軍議を開きます。家康は会津上杉の討伐を中止し、軍勢の進路を大坂に向けることとします。
その折、下野国宇都宮の結城氏や奥羽の諸将に会津の牽制を命じます。 家康の命を受けた伊達政宗は会津国境に軍勢を進め上杉を牽制し、出羽合戦の前哨戦が開始されます。
上杉家:上泉主水主水佐泰綱※と伊達郡小手村内大館古城にて合戦を行います。 上泉泰綱は伊達勢の首一〇六を獲る戦果を上げ 会津に報告しています。
● 伊達政宗の動静と奥羽諸侯
”家康、西進す”の報は会津討伐に出陣していた奥羽諸侯の行動を鈍らせます。
特に上杉領の白石城を落としていた伊達政宗は、家康の作戦変更〜江戸での傍観を知ると上杉氏との積極的交戦を回避する行動にでます。
他の奥羽諸侯も伊達家のそれにならい兵を退きはじめます。この当時は全ての大名達が次の権力の推移に固唾を呑んで見守っていた時期であります。 奥羽の諸侯も家康対三成の情勢を傍観し旗色を伺っていたのです。
このあたりは政宗の”独眼竜”といわれるくわせものぶりが伺えます。
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