●出羽合戦
九月八日、直江兼続は米沢と庄内の二方面に分けて出羽へ侵攻します。米沢からは兼続率いるおよそ2万5000人の大軍を萩野中山口へと進め、途中、掛入石仲中山口に篠井康信、横井旨俊ら4000人を別働隊として進軍させます。 庄内からは酒田城より志駄義秀らが3千人の兵を率いました。
上杉総勢およそ3万。
その動きに呼応して勇猛で知られる横手城:城主、小野寺義道も上杉景勝と同盟を結び仇敵:最上家の所領に侵攻します。 三方から敵を受ける形となった最上軍の総兵力はおよそ7000人あまり。しかも畑谷城や長谷堂城、連なる支城・砦などに兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかったそうです。
● 「長谷堂城の戦い」の前哨戦
12日、直江兼続は最上義光の本拠地:山形城への最短距離をとって白鷹から侵攻。最上領の最前線・畑谷城では城将江口五兵衛、守備兵およそ500人が上杉勢を相手に激戦を繰り広げます。
畑谷城は低山に位置し、城まわりもなだらかな地形であるため、畑谷城では精鋭で鳴る上杉勢およそ20000人(寄手の将は色部修理亮光長(後に長門守)を先手、春日元忠・水原親憲らが担当)を相手にできるはずはありませんでした。
義光は城将江口五兵衛に対して帰還を命じますが、江口五兵衛はあえて籠城・敵軍の中に斬り込んでの玉砕を選びます。 『最上義光物語』では、
「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。一度にとつと引たりける」
と、激戦の様子を記しています。
上杉勢は畑谷城に援軍に来た最上勢をも破っておよそ1000人の死傷者をだしつつも、十三日に畑谷城を陥落させます。
以下は畑谷城で散った最上の勇士達です。
・江口五兵衛光清(畑谷城守将・自刃 )
・江口小吉時直(畑谷城で討死 )
・岩瀬和泉守(畑谷城で討死 )
・草刈善介 (畑谷城で討死 )
・土屋彦左衞門(畑谷城で討死 )
・林 縫殿助(畑谷城で討死 )
・細谷C左衞門(畑谷城で討死 )
・真嶋左衛門(畑谷城で討死 )
・松田忠作時久(畑谷城で討死 )
・向田八郎左衛門光之
(畑谷救援に失敗、責任を感じ自刃す)
慶長五年(1600)九月十五日。 米沢を出陣して1週間。直江兼続は山形城の支城、長谷堂城に迫る。此処を抜けば次は最上家の最後の城となる。野戦では当代きっての名将と謳われた直江兼続の脳裏には既に家康との直接対決の様を思い描いていたに違いありません。
この日の早朝、霧が晴れた美濃関ヶ原では石田三成と徳川家康が日本の政権を争う天下分け目の大合戦を行っていました。 |