信濃諏訪郡全域を支配下に置いた晴信であったが、その前に立ちはだかった一人の国人がいた。当時、北信〜東信にかけて勢力を拡げていた埴科(はにしな)郡葛尾城(長野県坂城町)主・
村上義清である。
村上氏は信濃北東部の有力国人で、義清の頃には佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな)・埴科・高井・水内(みのち)の六郡を支配する大きな勢力となっていた。義清は文亀元年(1501)に頼衡(頼平・あるいは顕国とも)の子として生まれ、左衛門督(左衛門尉)のち周防守を称した。晴信より二十歳年上で、世代的には晴信の父・信虎に近い。義清は猛将と呼ぶにふさわしい人物で、信虎とは同盟を結んでおり、天文十年(1541)五月には信虎・諏訪頼重とともに海野平の戦いで海野棟綱を破り、海野氏を信濃から追い出している。しかしこの直後の六月に信虎は晴信のクーデターにより甲斐を追い出され、以後晴信が信濃諏訪郡に続き同佐久郡へと侵攻を開始するにおよんで武田氏との同盟関係は消滅、義清と晴信は敵対することになった。
晴信は信虎を追放すると、翌十一年六月に諏訪攻めを行った。諏訪頼重を自刃させて諏訪郡を平定すると、翌十二年五月に板垣信方を諏訪郡代として据え、今度は矛先を佐久郡〜小県郡の一部に勢力を張っていた長窪城(長野県長和町)主・大井貞隆に向けた。貞隆は捕らえたものの、その子貞清や志賀城(同佐久市)主・笠原清繁は屈せず抵抗を続けたが、晴信は十五年五月に大井貞清を内山城(同)に攻め(貞清は後に晴信に降伏)、十六年八月には笠原清繁を志賀城に滅ぼし、佐久郡を支配下に置いた。こうして、必然的に村上義清との対決は避けられない状況となっていったのである。
天文十七年(1548)早々、晴信は小県郡への本格的な侵攻を決めると二月一日に出陣、諏訪を経由して折からの雪をものともせず大門峠越えを行い、小県郡に入ると葛尾城から二里ほど南、千曲川を隔てた上田原に布陣した。一方、晴信出陣の報を受けた義清も直ちに出陣、川を隔てた岩鼻に陣を敷いた。そして二月十四日、ついに両者は激突する。
武田勢は先陣に板垣信方らの三千五百騎、二陣は晴信の弟信繁を大将に飯富兵部(虎昌)・小山田備中(昌辰)・小山田信有らの三千余騎、三番は晴信に加えて馬場民部(信房)・内藤修理(昌豊)らの四千五百余騎、後備えに原加賀守(昌俊)・日向大和守(是吉)の一千五百余騎と真田弾正(幸隆)・浅利式部(信種)・諸角豊後(虎定)の千五百余騎、総勢一万四千余騎という陣立てであったという。対する村上勢は七千余騎で迎え撃った。(兵数は両軍とも異説有り。武田勢は実際はもっと少なかったと思われる)
真田幸隆
村上勢との一戦に臨んで真田幸隆は晴信にぜひとも先鋒をと願い出たが、晴信は許さず右翼の脇備えを命じた。というのも義清は幸隆の謀略により多くの家臣を失った恨みがあり、勝負を度外視してでも幸隆の陣には激しく攻め掛かることが予想され、そのため幸隆を討ち死にさせてしまうおそれがあるためという。
両軍は次第に近づくが、村上勢の旗本が晴信の本陣に向かう気配を見せたため、真田幸隆は晴信にその旨を急報した。報を受けた晴信は二陣の信繁や先陣の板垣に「軽々しく進むな」と伝令を出すが、板垣陣までは相当の距離があり、伝令が到着するのを待たず戦いは開始されてしまったのである。
板垣信方は三千五百の兵を率いて正面の村上勢と戦い、追い崩して百五十の兵を討ち取った。ここまでは良かったのだが、何を考えたか味方の軍勢から離れた上に陣の前(敵側)へ出て首実検を行っていたところを、反撃に出た村上勢に急襲されてしまうのである。正に油断そのものであった。床几に腰掛けていた信方は急ぎ馬を引き寄せて乗ろうとするが、まだ馬に乗らないうちに敵兵数名が乱入、信方は村上勢に囲まれて鎗を付けられ、上条織部に首を取られたという。
こうして激戦が展開されたが、先陣が崩された武田勢は劣勢となり、小山田信有は奮戦するものの甘利虎泰・初鹿野伝右衛門(昌次)・才間河内守が戦死、勢いに乗った義清は武田本陣に攻め込んで晴信に二ヶ所の傷を負わせたと伝える。しかし村上方のダメージも大きく、屋代源吾(基綱)・雨宮刑部(正利)・小島権兵衛らを始め多くの侍大将を失っており、戦況は「村上方優勢の痛み分け」といった感じで膠着状態となった。信憑性の高い『高白斎記』『妙法寺記』では、この戦いの様子を以下のように記述する。
「二月大丁未巳刻向坂木。雪深クツモリ候間、大門峠ヨリ御出馬。細雨夕立ミソレ。二日戌申小山田出羽守出陣。十四日庚申板駿・甘備其外討死。十五未刻申来ル。十七日癸亥甘利藤三ヲ呼、兵始テ仕始。申刻並門出向東方。十九日相模ト高白致談合御北様ヘ申上、野村筑前守・春降出雲守両人御陣所ヘ参、御帰陣ノ御意申上ル。三月小丁丑五日諏訪ノ上原迄被納御馬」(『高白斎記』)
「此年ノ二月十四日信州村上殿近所塩田原ト申所ニ而甲州晴信様ト村上殿合戦被成候。去程ニタカヒニ見合テ川ヲ小盾ニ取候而、軍ヲイレツ乱レツ被食候。去程ニ甲州人数打劣ケ、板垣駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内守殿、初鹿根伝右衛門、此旁打死被成候而、御方ハ力ヲ落シ被食候。去共御大将ハ本陣ニシハヲ踏ミ被食候。小山田出羽守殿無比類働被成候。御上意様ニカセテヲオヒ被食、去間一国ノ歎キ無限。去共軍不止」(『妙法寺記』)
戦いに敗れて負傷した晴信だったが、『妙法寺記』の記述を借りると、そのまま本陣に「シハヲ踏ミ(芝を踏み)」留まっていた。しかし十五日に上原城で知らせを受けた駒井政武(高白斎)は、今井相模守(信甫)と相談して御北様(晴信の母・大井氏)に戦況を伝えて晴信が帰国するよう協力を願い出る。その結果、野村筑前守・春降出雲守が大井氏の使者として晴信の陣所へ行き、帰国するよう要請すると晴信もようやく撤兵を決意、三月五日に上原城へと戻った。
初めて敗戦を味わった晴信だったが、二年半後に起こる砥石城の戦いにおいて、またもや義清に苦杯をなめさせられることになろうとは、夢にも思わなかったに違いない。
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