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大河ドラマ「風林火山」に迫る!

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Vol.10 川中島の戦い前編(第4次を除く)

   さて、一年の長きにわたって放映された大河ドラマも、ようやくクライマックスを迎える。そのラストシーンが、永禄四年九月十日に行われた世に名高い「川中島の戦い」である。

  この信濃川中島をめぐる武田氏と上杉氏の戦いは、一般には五度行われたとされている。
すなわち、一大決戦となった永禄四年の戦い以前にも、天文二十二年(1553)八月〜九月・弘治元年(1555)七月〜閏十月・同二年八月と、大きな衝突こそなかったが、この地周辺で両軍が三度戦っている。また、この後の永禄七年(1564)八月〜十月にかけても両軍は出陣するが目立った戦いはなく、これにて十二年間に及んだ川中島をめぐる戦いはひとまず終結した。これにより、永禄四年の激闘は発生順に数えて四番目の戦いとなるので、「第四次川中島の戦い」とも呼ばれている。
  では、なぜ両者は川中島をめぐって長期に及ぶ戦いを繰り広げたのであろうか。それにはいくつかの理由があるが、まず川中島の位置と経済的価値である。

 川中島の北隣の台地は善光寺平と呼ばれ、ここには信濃の名刹・善光寺があった。その門前町は古くから栄えていて街道の往来も多く、両者にとって経済的な価値があったことが挙げられる。
  次に、川中島の軍事的価値である。周辺の高井・水内(みのち)・埴科(はにしな)・更級(さらしな)の各郡は川中島四郡と呼ばれ、東西南北の交通路が交わる交通上の要衝であった。しかも信越国境まで約九里と近く、上杉謙信の本拠・春日山城までの道のりも約十八里程しかない(距離は両者の激突した八幡原を起点に試算)。


  武田側から見れば、ここを押さえないことには信濃一国支配完遂の画竜点睛を欠くことになり、北進の雄・村上義清と小笠原長時を追い出した以上、面子にかけても川中島は押さえておく必要があった。また上杉側から見れば、村上義清からの奪回要請もさることながら、本拠春日山城に近いこの地方を押さえられ腰を据えられると、本国越後全体の防衛上甚だ不安な状態に陥ることになるのである。
  つまり、簡単に言えば川中島をめぐる数度の戦いは、信濃への勢力拡大を策す武田氏と、本国の防衛上それを阻止する必要があった上杉氏との間で行われたわけである。

 そこで今回のクライマックスとなる永禄四年の戦いをご紹介する前に、他の四度の戦いを簡単に述べておきたい。

 

 

 

【第一次川中島の戦い】
  天文二十二年(1553)四月二十二日、武田軍は葛尾城を落とした勢いに乗って北上、更級八幡神社(武水分神社・長野県千曲市)付近で北信の豪族連合と見られる敵勢約五千と戦いを交えた。戦況は不利に陥り葛尾城も奪還されるなど、占領したばかりのいくつかの地域が奪われたため晴信は一旦兵を甲府に退かせた。七月二十五日になって再び出陣、一日に十六の城を落とすなど破竹の勢いで北上、小県郡を奪回して川中島に至った。ここで九月初め〜十七日頃まで初めて長尾景虎率いる越後勢と戦うが、本格的な戦いには至らず局地的な小競り合いに終わった。戦況は越後勢がやや優勢だったと伝えられるが、二十日には景虎が兵を越後へ引き揚げており、晴信も翌月七日に深志城(松本市)に入ると、程なく甲府へ戻った。景虎が優勢にもかかわらず兵を引いたのは、上洛の日程が迫っていたからという。

【第二次川中島の戦い】
  天文二十三年(1554)十二月、長尾氏の家臣で刈羽郡北条(きたじょう)城の北条高広が、晴信の調略に応じて景虎に反旗を翻した。翌弘治元年二月に高広は景虎に降伏して反乱は平定されるが、四月になって景虎は北信へ出陣すると、善光寺城を拠点として武田方の旭山城を攻めた。晴信は旭山城を守る栗田鶴寿に三千の
兵と弓鉄砲を入れると、自らも兵を率いて出陣、七月十九日に両軍は犀川付近で戦いを交えた。この戦いの内容は不明だが、一応武田方の優勢と考えられる。景虎は前後を敵勢に挟まれる形になったため、思い切った行動が取れず、戦いは膠着状態となり両軍の対峙が続いた。その間に晴信は今川義元に調停を依頼、閏十
月十五日に講和が成立して両軍とも撤兵している。

【第三次川中島の戦い】
  弘治元年(1555)閏十月に講和したばかりの両軍であったが、翌年晴信は早速講和を反故にして北信の攻略を行った。八月には再び調略を施し、景虎の重臣で箕冠城(みかぶり・新潟県上越市)主・大熊朝秀に反乱を起こさせる。朝秀は越中で兵を挙げたものの結局景虎に敗れて甲斐へ走り、晴信の家臣となった。続いて翌弘治三年(1557)二月、晴信は川中島へ兵を送って景虎方の守っていた葛山城(長野市)を落とすと、怒った景虎は四月十八日に川中島へ出陣するが、晴信は深志
城まで出陣してきたものの、それ以上は動かなかった。五月から七月にかけて、両軍は決戦を避けつつ景虎は埴科郡の各城を、晴信は信越国境の小谷城(おたり・長野県小谷村)を落とすなどの動きを見せた後、八月に川中島北部の上野原で両軍が戦いを交えた。戦いの詳細や晴信が在陣したかどうかも不明だが、戦いは景虎方が優勢であったようである。この後九月になって景虎が、十月に晴信がそれぞれ兵を引いて帰国している。

【第五次川中島の戦い】
  永禄四年九月の激闘の後、北信地方は武田方の優位のうちにひとまず落ち着き、両軍は戦いの中心を西上野に移していた。信玄(晴信は永禄二年五月に出家し信玄と号す)は北条氏康と連携して武蔵松山城(埼玉県吉見町)を落とすなど上杉輝虎(永禄四年十二月に政虎より改名)に対峙したため、輝虎は関東での戦いに明
け暮れていた。永禄七年(1564)三月、信玄は会津の蘆名盛氏に通じて輝虎の背後を脅かすと、その隙に信濃へ出陣して野尻城(野尻新城・長野県信濃町)を攻略した。関東出陣中の輝虎は急いで軍を返して奪還へ向かい、七月に善光寺平に着陣して信玄との決戦を望む。しかし信玄は出陣はしたが決戦は避け、二ヶ月に及ぶ
長期対陣となった。この間大きな戦いは起こらず輝虎は十月一日に退陣、結局輝虎は野尻城は奪い返したものの、信玄は信濃のほぼ全域を領国化することになり、川中島をめぐる戦いは終結した。

by Masa



 
 

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