信玄・謙信両者はこうして川中島で激闘を演じたが、戦いの結果は痛み分けで
あった。双方ともに勝利を宣言したものの、互いに多数の死傷者を出し、傍目にもどちらの勝ちとは判じが
たい状況であった。特に武田側では勘助はさておき、信玄の弟の信繁や諸角豊後守虎定といった上級将校が戦死したため、当時世間では上杉方やや有利と見られていたかもしれない。両者はこの後も川中島を巡って小競り合いを展開するが、さして目立った戦いはなく、永禄七年(1564)の対峙を最後にこの地域を巡る戦いは終わり、また両者が激突するような戦いは以後姿を消した。
信玄は信濃支配を着々と進め、その大部分を領有することに成功した。しかし、信濃全域の支配となると、勝頼の代を待たねばならない。そして信玄は永禄九年には箕輪城の長野業盛を攻め滅ぼし、上野西部も版図に加える。箕輪城には山内上杉家の名将で「上州の黄班」の異名を持つ長野業正がおり、業正の在世中はさすがの信玄といえども簡単には攻略できなかったが、業正は永禄四年(1561)に死去、跡を嫡子の業盛が嗣いでいた。
信玄はこうして上野西部を手中に収めると、同十一年十二月には駿河に乱入して駿府今川館を攻め落とした。その際今川氏真は遠江掛川城に走るが、信玄と共同歩調をとって三河から遠江に侵攻した徳川家康により程なく掛川城を追われ、ここに事実上戦国大名今川氏は滅亡した。信玄は元亀二年正月に深沢城を守る北条綱成・氏繁を攻めるが、その際「深沢城矢文」を射込んで開城を勧告した話は有名である。綱成は勧告を受け入れて退去、ここに信玄は駿河のほぼ全域を手中にした。
次いで信玄は遠江へも触手を伸ばし、ついに徳川家康と戦うことになる。元亀三年(1572)十月、信玄が西上を開始すると、家康はこれを迎え撃った。家康は本多忠勝・大久保忠世・内藤信成らに全兵力の半分に当たる四千の兵を与えて威力偵察を目的に出陣させた。これを見た信玄が兵を繰り出して徳川勢に迫ると、兵力に劣る徳川勢は決戦を避けて退却するのだが、その殿(しんがり)を務めたのが二十五歳の青年武将・本多忠勝であった。
忠勝は鮮やかに士卒を指揮して駆け回り、無事に殿の大役を務めた。武田方からもその見事な武者振りには感嘆の声が上がったという。世に名高い「家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八」という落首は、この際に詠まれたものである。
当時の家康にとって、信玄はまともに戦って勝てる相手ではない。家康は翌月になって同盟者である織田信長に援軍を要請、信長は佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀らに三千の兵を付けて派遣した。しかし援軍を加えても武田勢は三倍近い大軍、とても勝ち目はなかった。それにもかかわらず家康は出陣、浜松の北にある三方ヶ原で戦いを挑んだ。
戦いは激戦となったものの、結局は信玄の圧勝であった。信玄は引き続いて三河へ侵入、翌年二月には野田城を攻略すると長篠城へと入るが、ここで武田軍の動きが急に止まった。この頃信玄は病(労咳=現在の肺結核と伝えられる)に冒されていたが、それが悪化したためである。主治医の板坂法印は信玄を鳳来寺温泉に運んで療養の手を尽くすが回復の兆しは見えず、このため武田軍は本国甲斐に軍を返すことに決した。
上洛を断念した信玄は甲斐に戻る途中に容態が急変、信濃駒場で生涯を閉じた。天正元年(1573)四月十二日のことである。享年五十三。余談だが、食事中に信玄死すの報に接した上杉謙信は、愕然として箸を取り落とし落涙したと伝えられている。
その後勝頼が跡を嗣ぐが、同三年五月に三河長篠設楽原において織田・徳川連合軍に大敗を喫すと、以後急速に武田氏の勢力は衰えていった。そして配下の国人領主たちの離反が続出していよいよ弱体化したところに信長の甲斐侵攻に遭う。進退窮まった勝頼は同十年三月十一日に甲斐天目山で自刃、ここに武田氏は滅亡した。
[完]
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