小田原北条氏は当時氏直の代になっていたが、秀吉の要請に対して上洛の意は示したものの、政務繁多を理由に出仕を引き延ばしていた。
その理由の主なものの一つが上野(こうづけ)沼田領(群馬県沼田市)問題である。
本能寺の変の際には上野厩橋城には滝川一益がいたが、一益の退去後は北条氏が手中に収め、甲信地方一帯で徳川家康と領土争いを繰り広げていた。やがて徳川・北条両氏の交渉により、甲斐一国と川中島四郡を除く信濃は徳川が、上野一国は北条が領することで話がまとまり両者は和睦、これを受けて家康は当時徳川方にあって沼田を領していた真田昌幸に対し、代替地を与えるので沼田を北条氏に渡すようにと命じた。しかし、真田氏にしてみれば軍政両面における要衝・沼田は昌幸が武田氏時代に自力で奪い取った地であり、そう簡単に手放すわけにはいかない。怒った昌幸は家康の下を離れ、秀吉に直訴するという挙に出た。
秀吉は昌幸と徳川・北条両氏から話を聞き、名胡桃だけは真田の所領と認めた上で、沼田を北条氏に引き渡すよう裁定を下した。昌幸は落胆したものの、さすがに秀吉の調停は拒み切れず、熱鉄を飲む思いで受け入れて潔く沼田を譲ると、北条氏は当主氏直の叔父氏邦に統治させ、氏邦は配下の猪俣能登守範直を城代として入れた。これが天正十七年(1589)十月三日のことである。
しかし、この月の二十三日、昌幸配下の名胡桃城主・鈴木主水正(もんどのしょう)重則が猪俣能登守に欺かれて城を奪われ、責任を感じた重則が自刃するという事件が起きる。昌幸が直ちに秀吉に知らせると、秀吉は烈火のごとく怒った。いや、怒ったふりをしたという方が正しいかもしれない。なぜなら秀吉は、何かと理由を付けて出仕しようとしない北条氏の態度に業を煮やしてはいたが、北条氏は特に反抗的な態度を示しているわけでもなく、加えて当主氏直は家康の女婿ということもあり、討伐したくとも簡単には出来ないという事情があったからである。しかし、ここに格好の大義名分が出来た。秀吉は北条氏討伐を決意すると、早速宣戦布告の書状を作成し、新庄直頼を使者として駿府の家康のもとへ届けさせ、家康から北条氏に伝えるよう申し送った。
翌十八年早々、秀吉の異父妹で徳川家康の継室となっていた朝日(旭)姫が、まだ四十八歳の若さで聚楽第において没した。朝日姫は二年前に母・大政所が病にかかったことから見舞いと称して家康の下を離れ、聚楽第へ駆けつけた。彼女はそのまま聚楽第に留まっていたが、長年のストレスからか逆に自身が病に倒れてしまい、正月十四日に大政所や北政所(おね)に看取られて世を去ったのである。戦国の世にままあることとは言え、秀吉の政治に利用され翻弄された気の毒な生涯であった。
秀吉は全国に号令を発すと、自身も三万二千の兵を率いて三月一日に京都を出陣、小田原へと向かった。二十九日に北条方の西の要衝・箱根路を守る山中城をあっという間に落とした秀吉軍は、別働隊に北条方の支城を攻めさせつつ小田原城へと迫る。一豊は秀次に従って山中城攻略に参加し戦功を挙げているが、この戦いは非常な激戦となり、一豊の同僚・一柳直末が戦死、堀尾吉晴も嫡子を失っている。
秀吉は陸路のみならず、水軍として長宗我部元親や九鬼嘉隆、加藤嘉明らにも出陣を命じ、海陸両面から二十万を超える大軍を動員して小田原城を包囲、一豊は城の北西・水之尾口に対して陣を構えた。北条氏は当初、城外へ出て富士川〜黄瀬川のラインで迎撃しようとしたが老臣の松田憲秀が反対、結局は小田原城に五万七千余の精兵を選りすぐって籠城、箱根路(山中城)で敵を防ぐという作戦を採用する。しかし結果的に北条方の読みは少々甘かったようで、山中城はわずか半日で落とされ、韮山城は即日落城は免れたものの秀吉は小田原城の包囲を急ぎ、圧倒的な兵数に物を言わせて得意の長期戦へと持ち込んだ。
秀吉は小田原城を見渡せる石垣山に陣城を築き、箱根湯本から移ると一斉射撃を行わせるなどして北条方の気勢をくじいた。六月に入ると城内から秀吉方に内通・投降してくる部隊も出始めるなど北条方の戦意は次第に低下、ついに七月五日、氏直は弟の武蔵岩槻城主・氏房を伴って徳川家康の陣を訪れ、降伏を申し出ることになる。
秀吉は家康の婿である氏直は助命する(高野山へ配流)代わりに、氏直の父・氏政と叔父の北条氏照は許さず切腹を命じた。両名は従容としてこれを受け、九日に医者の田村安栖の宿所に入って切腹、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
これにより秀吉に正面切って反抗する大名家はなくなり、ついに天下統一が実現されたのである。
戦後、秀吉は家康に旧北条領の関八州・二百四十万石の地を与え、関東へ移した。同時に一豊も五万石に加増され遠江掛川城(静岡県掛川市)主となり、中村一氏(駿府城主)・堀尾吉晴(浜松城主)とともに家康に対する押さえとして、それぞれ東海道の要地に配置された。
十九年正月、前年の朝日姫に続いて今度は秀吉の弟・大和大納言秀長が没した。戦国時代の名補佐役として世に知られる秀長は天文九年(1540)に尾張中村で生まれ、幼名を小竹、のち小一郎と称した。秀長の母は大政所(なか)で秀吉の弟には違いないが、父親は秀吉の父・木下弥右衛門昌吉とする説と、継父・竹阿弥とする説がある。
秀長は二十二歳の時、当時足軽頭だった秀吉の要請により侍となって以来、常に秀吉を支え続けて出世を助けてきた。秀吉が信長の下で中国方面司令官を務めていた頃、秀長は丹波〜但馬〜山陰地方で活躍、天正十三年の紀州征伐の戦功により紀伊・和泉で六十四万石を与えられると、続く四国平定戦では総大将を務め、戦後大和一国を加封されて大和・紀伊・和泉三国百万石の主となった。
秀長は同年閏八月に伊賀へ移封された筒井氏(定次)に代わって大和郡山城へ入った。大和は古くから寺社の勢力が強く、武家による統治が難しい土地柄であったが、城下町建設にあたって秀長は強力な商業保護政策を採り、見事に成功させている。秀長は同年十月には参議、翌十四年十一月には中納言となり、同十五年八月に従二位大納言に昇ったことから大和大納言と呼ばれ、人望も厚く名実ともに秀吉政権下のナンバー2であった。
さらに八月二日、秀吉の長子鶴松がわずか二歳と三ヶ月で病没する。秀吉は悲しみのあまり髻(もとどり)を切り落とすが、諸侯もこれに倣って我も我もと髻を切ったことは有名で、一豊も諸侯とともに髻を切り落としている。相次ぐ身内の死に理性を失ったか、秀吉は九月十六日、諸将に朝鮮出兵を宣言した。一豊は秀次とともに出陣を免れたが、秀吉は十二月二十七日に関白職を秀次に譲り、翌文禄元年三月には太閤となった自ら三万の本隊を率いて京都を出陣、肥前名護屋の本陣へと向かった。世に文禄・慶長の役と呼ばれるこの戦いにおいて、渡海した武将たちは異国の地で非常な苦戦を強いられることになる。
一豊は秀次付きの宿老となり、朝鮮役には参加していない。しかし諸将が朝鮮で苦戦中の文禄二年(1593)八月三日、秀吉に待望の男児(秀頼)が誕生した。普通なら戦の最中とはいえ、秀吉はじめ家中が喜びに沸き返るところであろう。しかし、豊臣家には微妙な空気が流れ出した。秀頼を溺愛した秀吉は、関白職を譲った秀次の処遇に困ったのである。当然、秀次も秀頼の誕生に内心複雑な感情を抱いたであろう。巷説では秀次は秀頼誕生後、将来の不安にさいなまれて数々の悪行・・・酒浸りになり美女狩りを行った、妊婦の腹を割いて赤子を取り出したetc・・・を重ね、「殺生関白」と呼ばれるようになったという。しかしこれらはどうも秀吉の所行を正当化するために捏造された話のようで、今となっては真実は確かめようもない。
秀次の乱行が事実かどうかはさておき、秀吉は秀次に対し、官位・官職を解いて高野山へ追放、さらに切腹を命じたことは紛れもない事実である。高野山に追われた秀次は青巌寺に入るが、秀吉は猶予を置かず切腹の沙汰を伝えた。秀次は見苦しい抵抗や反論はせず従容として自刃、その様子には検死役を務めた猛将・福島正則が涙を流したという。時に文禄四年(1595)七月十五日、享年二十八歳であった。さらに秀吉は連座責任として前野長康らの功臣にも死を与え、秀次の妻子たちも八月二日に京都三条河原で処刑している。宿老の一豊としても、一歩対応を誤れば危ないところであったが、うまく立ち回って連座は免れている。
豊臣秀次の墓(京都市中京区・瑞泉寺)
朝鮮出兵と秀次一族の処刑は、英雄・秀吉の生涯で正に九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)いた感がある。取り返しのつかない暴挙であった。
朝鮮役も一時休戦状態となるが、慶長元年(1596)九月に和平交渉が決裂、秀吉は再び出兵の意を固め、翌年二月にまたもや大軍を朝鮮に送るのだが、秀吉の寿命はここで尽きた。さすがの秀吉も病には勝てず、慶長三年(1598)八月十八日、京都伏見城にてその生涯を閉じる。享年六十二歳。辞世として以下の句が伝えられている。
つゆとをちつゆときへにしわかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ
秀吉の死により、俄然動き始めた人物がいた。豊臣家五大老筆頭・徳川家康である。家康は時勢の流れには敢えて逆らわず秀吉の顔を立てて臣従したが、戦って敗れたわけでもなく、もとより心服してはいなかった。表面には出さなくとも、隙あらばと天下人の座を虎視眈々と狙っていたであろうことは想像に難くない。そして秀吉の死を境に、徐々に家康の野望が具体化していくのである。
まず家康は、「武勲(武断)派」などと呼ばれる諸将、すなわち朝鮮役で大いに戦うが石田三成ら「吏僚派(文治派)」と対立していた福島正則らに接近、徐々にその歓心を買うことに務める。そして、秀吉が生前に禁じていた「無断で縁組みを結ぶこと」を破り、伊達・福島・蜂須賀氏と縁組みを結ぶ挙に出た。これは豊臣家に対する明らかな違背行為であり、三成らはこれを咎め、「内府違ひの条々」なる弾劾文を発すが、家康は「うっかりしていた」等のらりくらりと言い逃れし、挙げ句の果てには開き直った。明らかに確信犯である。
とは言え、五大老には旧織田家系大名の中心的存在で人望も厚い前田利家がおり、家康としてもそれ以上の行動は出来なかった。ところが翌慶長四年閏三月三日、その利家が病没したのである。
これを機に朝鮮役で三成らに恨みを持つ福島・加藤ら七将は、三成襲撃の挙に出た。
この事態に家康は、窮地に立たされた三成に助け舟を出し、一命の安全を保障する代わりに政権中枢から彼を外して佐和山へ蟄居させるという対処をした。七将は怒りは収まらないものの、相手が家康ではどうすることも出来ない。とりあえずこの件は三成の蟄居ということで収まったのだが、今度はこれも五大老の一人・上杉景勝が家康と険悪な関係になり、これがきっかけで「天下分け目の戦い」の幕が切って落とされることになる。
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