■【深沢城の戦い】元亀二年(1571)1月3日
武田信玄が深沢城の北条綱成・氏繁を攻め、有名な「深沢城矢文」を射込む。
深沢城は甲斐・駿河・相模三国の国境にほど近く、そのため武田信玄と北条氏康・氏政の間で何度か争奪戦が行われました。実はこの前年の四月にも深沢城を巡る戦いが起こっており、その時は武田方の駒井右京進昌直が城将を務めていましたが、北条氏康・氏政は三万八千もの大軍で攻め、城を奪っています。そして北条氏は「地黄八幡」の異名を持つ勇将・北条綱成を城将として入れ置きました。
さて、年が明けて元亀二年のこの日、今度は武田信玄が攻め寄せました。信玄は戦いに先立ち、「深沢城矢文」といわれる手紙を城内に射込んだとされます。内容は漢文で難解かつ長文ですが、要点を簡単に言うと次のようなものです。
「今回出陣したのはこの城が欲しいわけではなく、北条氏と雌雄を決するためである。もともと我々が友好を築いてきたことは周辺の国ならば皆知っている。しかし関八州の士卒は悉く上杉謙信に従い、謙信が小田原城へ攻め寄せ氏康父子が籠城した際には我らも随分力を貸した。だからこそ謙信を追い払うことに成功したのである。(中略) しかし今川氏真は我らと浅からざる関係であったが、若年のためか日を追うごとに交わりを絶ち誼を忘れ、あろうことか上杉謙信と通じるなど我らを十分怒らせる企てを行った。我らは氏真討伐をこらえてきたが、もはやそうもいかず駿河に攻め入った。氏真はひと支えも出来ず敗れ、ここに我らは積年の恨みを晴らしたのである。(中略) 毎回我らが勝利を得るのは軍事力や戦術が優れているからではなく、天の思し召しである。駿河を始めとする東八ヶ国は天から我らに与えられたもの。氏康は何故我らの邪魔立てをするのか。城を明け渡しにくいのであれば、後詰めを要請されよ。その旨飛脚にて知らせていただければ、使者を小田原城まで無事にお届けしよう。お返事を待っている」
何とも凄まじい信玄の自信ですが、北条氏政は正月十日に小田原を出陣して救援に向かったものの城は十六日に開城、綱成は城を後にしました。ここに再び攻守ところを変えて戦いは続きます。