■【蔚山城の戦い】慶長三年(1598)1月4日
朝鮮蔚山(うるさん)城の戦いで援軍が到着し、明軍は退却する。
豊臣秀吉の朝鮮侵略は文禄年間と慶長年間の二回行われていますが、この戦いが行われたのは二度目の出兵時です。日本軍は蔚山を朝鮮半島東南部・慶尚道(キョンサンド)における統治拠点とするべく、慶長二年(1597)十一月頃より城を築き始めました。担当は築城の名人・加藤清正です。清正は毛利秀元らの兵一万六千を指揮し、完成を急ぎました。やがて城は大体完成、十二月二十二日に入城すべく準備していたところ、七万に及ぶ明・朝鮮の大軍が日本軍の仮営を急襲します。
清正は当時蔚山から少し離れた西生浦にいましたが、明軍来襲の報に直ちに出陣して蔚山城に駆けつけ入城しました。しかし城は出来たものの、武器弾薬はもとより一番重要な兵糧がまだ蓄えられておらず、十分な籠城が出来る状態ではありません。加えて敵軍はそれを熟知しており、ここに「朝鮮版・鳥取城の戦い」が再現されることになりました。
数日間に渡って総攻撃を掛けられますが、清正らはよく持ちこたえます。しかしこの時期の寒波が追い打ちをかけ、日本軍は敵に加えて飢えと寒さとも戦わなければいけなくなりました。城内では羽柴秀吉が吉川経家に対して行った鳥取城攻めと同様の地獄絵が出現します。食糧がなくなると城兵は馬を殺して食い、壁土をすすり、挙げ句の果てには人肉をも食らうようになりました。二十九日になって頃合いは良しと、明・朝鮮側は総攻撃を掛けるとともに勧降の使者を送ってきますが、清正らは四日後の一月二日に会談に応じると回答し、少しでも援軍到着までの時間を稼ぎました。
期限が過ぎた四日になって明・朝鮮側は再び攻撃を掛けますが、清正らは頑張り抜きます。そこへ毛利秀元の援軍が到着、敵の背後から攻め立ててついに撃退、ここに蔚山城は救われました。本来なら追撃戦に移るところですが、日本軍にそのような余力は残っていませんでした。結局この年の八月に秀吉が没したことにより、何の益もなかった二度の朝鮮出兵は幕を閉じます。