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戦国魂 今日の出来事

■【九条政基父子が執事を殺害】明応五年(1496)1月7日

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前関白・九条政基と尚経父子が、仲が悪かった執事の唐橋在数(ありかず)を自邸で殺害する。

 五摂家の長老で従一位関白となった九条政基は文安二年(1445)、満教の子として生まれました。十五歳で元服、従四位下右少将として出仕します。文明八年(1476)に従一位関白氏長者に昇りますが同十一年には氏長者を辞し、十四年には家督を子の尚経に譲っています。

 文明八年といえば応仁の乱の最中で、政基は近江坂本に戦乱を避けていましたが、公家は何かと経費がかかり、政基は大嘗会(だいじょうえ)・御節(ごせち)用途に滞在費を含め、従兄弟で九条家執事を務めていた唐橋在数から二百貫文の借金をし、返済については政基の家領・和泉日根野庄入山田村(大阪府泉大津市)の年貢分を渡す約束をしていました。

 しかし、これが原因で二人の仲は次第に険悪となり、やがて政基は在数に会うことも拒否するようになります。そんな状況下でも在数は政基を無視して強引に出仕したため、政基父子は怒ってこの日の凶行に及んだものとみられます。

 在数の死により日根野庄の年貢収納権は九条家に戻りますが、政基父子は勅勘(天皇の命令による「勘当」)により出仕停止処分を受けました。明応七年(1498)になって尚経は許されますが、政基に赦免の沙汰はありませんでした。そこで政基はこれを機に出家、翌文亀元年に和泉へと下向します。和泉日根野庄滞在中の永正元年(1504)正月十一日に長福寺で盗難事件が起きた際、政基は湯起請により犯人を割り出すなど、どこか公家らしくない一面を持つ人物だったようです。