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■【松永久通誕生】天文十二年(1543)1月8日

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一説に、この日松永久通が河内飯盛山城に生まれる。父は久秀。

 松永右衛門佐久通は久秀の子で、久秀と行動を共にしていた部分が多く、目立った事績はさほど判明していません。久通はこの日河内飯盛山城(大阪府四條畷市)に生まれたとされますが、それを記した史料の信憑性には問題がありますので、一つの参考として捉えた方が良いかと思われます。

 『歴名土代(りゃくみょうどだい)』によると、久通は永禄六年(1563)閏十二月一日に従五位下・右衛門佐に叙任されており、同月十四日には久秀から家督を譲られています。つまり三好長慶在世時にすでに表向きは松永家の当主となっていたわけです。そして久通が残した事績の一つが、時の将軍・足利義輝暗殺でした。通常、義輝暗殺については久秀の所行とされているようですが、信頼できる史料には久秀が行ったという記述は見られません。同八年五月一九日の朝に突如として義輝を二条御所に急襲したのは、三好義継・三好三人衆と松永久通だったのです。

 この事件の最も信用できる記録『言継卿記』には「辰刻三好人數松永右衛門佐等」とあり、前日の記録には久通の他に松永家の重臣海老名石見守の名も見えています。もし久秀がその場にいたのなら記録されているはずでしょう。とは言え、久通が独断でこの挙に及んだとはまず考えられず、久秀は「実行部隊」には加わらなかったものの、計画自体に関わっていた可能性は極めて高いものと思われます。

 通説では久通は天正五年(1577)十月、久秀とともに信貴山城に滅亡したとされます。しかし、その直前には久通は楊本城(奈良県天理市)にいました。果たして久通が信貴山城に入ったのかどうか、現時点ではこれもまた歴史の小さな謎の一つです。