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戦国魂 今日の出来事

■【信長、堺から矢銭徴収】永禄十二年(1569)1月9日

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織田信長が上洛、一旦は矢銭の納入を拒否した堺の町衆が折れ、信長に銭二万貫を納める。

 永禄十一年(1566)九月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛、あっという間に畿内を制圧しました。それと並行して十月二日には本願寺ならびに自治都市として知られる和泉・堺に対し、それぞれ五千貫・二万貫の矢銭(軍用金)を要求します。本願寺は応じたのですが、堺は三十六人の会合衆(えごうしゅう)が談合してこれをはねつけ、大勢の浪人を雇い入れた上に堀を深くするなど、合戦の準備を始めました。むろん、堺衆の中でも今井宗久(納屋)のように、いち早く信長に謁して秘蔵の茶壺「松島」や名物茶入れ「紹鴎茄子」を献じた人物もいましたが、そういう人物は少数派でした。ちなみに宗久は後に信長から重く用いられています。

 元々堺は阿波からの海路の一つでもあって三好氏との結びつきが深く、当然三好三人衆と昵懇だった豪商も多数いたわけです。事実、この日の四日前に当たる正月五日に三人衆は京都本圀寺に足利義昭を襲撃していますが、その背後には堺衆の援助があったのです。結果的に三人衆は敗れて阿波へ逃げますが、信長が一連の堺の動きを不問に処すはずはありませんでした。

 信長は三好勢を追い払うと、直ちに堺の責任を厳しく問います。これ以上刃向かうならば、町を焼き払い老若男女を問わず皆殺しにすると脅しをかけました。さすがの堺衆も信長の実力を目の当たりにして急遽会合を開き、要求通り二万貫の矢銭を上納することに決しました。ここに堺は百五十年に及ぶ自治都市としての歴史に幕を下ろすことになります。