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戦国魂 今日の出来事

■【大坂冬の陣】慶長十九年(1614)11月15日

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徳川家康・秀忠父子が京都を発ち大坂へ軍を進め、世に言う大坂冬の陣が始まる。

 関ヶ原の戦いで西軍を撃破した徳川家康は、慶長八年(1603)に江戸幕府を開いて天下の実権を握りますが、二年後には早くも隠居して将軍位を息子の秀忠に譲り、駿府城(静岡市)へと移りました。この狙いは江戸幕府の将軍は代々徳川家が世襲すること、つまり豊臣政権の復活はないことを全国に知らしめることにありました。ここで豊臣家の当主秀頼(当時十三歳)がそれを認め、徳川政権下の一大名として存続する道を選べば、歴史は変わっていたかもしれません。しかし、豊臣方は拒否しました。秀忠が二代将軍に就任した際、家康から秀頼に対し上洛して秀忠に賀詞を述べるよう促されたのですが、秀頼の母である淀殿が頑なに反対しました。この時点で家康は豊臣家討伐の意を固めた感があります。

 しかし同十六年三月、十九歳となった秀頼はついに上洛して二条城(京都市中京区)で家康と会見します。この時も淀殿は反対しますが、加藤清正や福島正則、浅野幸長らの尽力で実現の運びとなりました。惜しむらくは清正が、会見のわずか三ヶ月後に病没したことです。毒殺説も囁かれますが、真相はわかりません。ともあれ家康は秀頼を上洛させることに成功し、もはや徳川家が豊臣家の上位にあることは周知の事実となりました。

 家康は喜んだものの、内心困りました。我が身も七十歳を過ぎ、あと何年生きられるかわかりません。自分が動けるうちに何とか豊臣家を滅ぼしてしまいたいのですが、肝心の名分がなくなってしまったからです。しかし同十九年七月、秀頼の寄進により造営中であった方広寺大仏殿が落成、その開眼供養直前に家康が待ったを掛けました。

 理由は、梵鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という字句でした。銘の作者は博学の誉れ高い清韓和尚です。ここに目を付けたのは金地院の以心崇伝で、「国家安康」は「家康」を「安」の字をもって二つに裂き、「君臣豊楽」は「豊臣を君として楽しむ」意を秘めたものという、とんでもないこじつけの言いがかりですが、家康はこれを重大視して開眼供養を中止させました。造営奉行の片桐且元は仰天、釈明すべく駿府に向かいますが、家康は且元を門前払いにした上に崇伝と本多正純に命じ、大坂方が先年来浪人を次々召し抱えているのは何事かなどと詰問させ、且元を責めました。明確な申し開きが出来なかった且元は秀頼に誓詞を出させると申し出ますが、正純からそんなものでは済まないと一喝された且元は恐れかつ悩んだ末、大坂城を明け渡して他国へ移るか、秀頼または淀殿を人質として江戸に送るか、淀殿を江戸詰めにするかのいずれかを選ぶ以外に道はないと豊臣家に報告しました。しかしこれは彼なりに主家安泰を考えた末の憶測に過ぎず、家康が言ったわけではありません。淀殿も且元とは別に大蔵卿局を駿府へ送っていましたが、家康は局とは会って優しく話をした上で、秀頼のことは悪く思ってはいないなどと、且元とは全く正反対の応対をしていました。

 且元の報告を聞いた淀殿が激怒したのは当然でした。家康の策にはめられ、豊臣家からは徳川方内通を疑われた且元は、ついに大坂城を退去して居城の茨木城に籠もりました。ここに両者の決裂は決定的となり、家康は十月一日に諸将に出陣を命じた上で自らも十一日に駿府から二条城へと向かい、江戸からの秀忠を待ちます。十一月十日になって秀忠が伏見城へ到着、この日両者は京都を出陣して大坂城へと軍を進め、世に言う「大坂冬の陣」が開始されました。