■【人取橋の戦い】天正十三年(1585)11月17日
仙道人取橋の戦いで、苦戦の末伊達政宗軍が二本松・蘆名・佐竹氏らの連合軍を退けるが、勇将鬼庭左月(良直)が戦死。享年73歳。
この年の十月、父輝宗を二本松(畠山)義継に殺害された伊達政宗は、父の初七日を済ませると二本松城攻撃に転じました。これに対し、翌月佐竹義重を中心とした蘆名・相馬・岩城氏らの連合軍三万の軍勢が二本松城救援に向け安積郡へと北上すると、この報せを小浜城(福島県岩代町)で聞いた政宗は岩角城(同白沢村)に移って軍備を整え迎撃します。
政宗は二本松城に押さえの兵を残し、この日残りの兵を率いて観音堂山に布陣すると、連合軍は直ちに揃って北上を開始、西の会津街道・青田原方面からは佐竹義重らが、中央の荒井からは蘆名・相馬氏らが進み、東の高倉城へは岩城・白河・石川・二階堂氏らの軍勢が攻めかけ、城を落とした上で政宗の本陣へと迫りました。伊達成実は奮戦して敵勢を食い止めますが、兵数に大きな差があり苦戦、伊達勢は各所で劣勢となり退却を余儀なくされました。中でも会津街道人取橋(同本宮町)一帯では大激戦となり、伊達勢の殿(しんがり)を務めた勇将・鬼庭良直が壮烈な戦死を遂げています。
良直は周防守を称し、入道して左月斎と号した重臣で当時七十三歳でした。老齢のため甲冑を着けることが出来ず、黄綿の帽子を着用して戦っていたといいます。良直は自分が敵をくい止める間に政宗を安全に退却させようと、わずか百騎に満たない軍勢で玉砕覚悟の突撃を敢行しました。彼は乱戦の中、敵の首級二百余を挙げるなど奮戦しました。しかし全身に矢を射立てられ、深手浅手の刀槍傷を負い、ついに気力体力ともに尽き果てて岩城氏の臣・窪田十郎に討ち取られました。
良直らの必死の奮戦により政宗は窮地を脱し、日没のため連合軍は兵を一旦引きました。しかし敵は数倍の大軍、伊達勢の命運は風前の灯火となりますが、ここで思わぬハプニングが起きました。翌日、敵軍が退却を始めたのです。これには事情があり、佐竹氏の留守を狙って里見氏が出陣したとか、仲間割れによって佐竹義政が殺され、動揺した連合軍がそれぞれ自領に引き上げたとか言われますが、事情はどうであれ政宗は危地を脱しました。
結果的に佐竹氏らによる二本松城救援は果たせず、翌年七月に同城は政宗の手に落ちました。やはり名将と言われる人物は、多分に強運を持ち合わせているようです。