■【松永久秀が筒井城を攻略】永禄八年(1565)11月18日
松永久秀が筒井氏の大和筒井城を攻略、順慶は布施城へ入る。
当時三好長慶の重臣だった松永久秀は、永禄二年(1559)八月に大和へ侵入して以来、長きにわたって筒井氏を中心とする大和国人衆と戦いを繰り広げました。信貴山城(奈良県平群町)に居を構えた久秀は翌年二月には弾正少弼に任ぜられ、さらに従四位下に昇り将軍義輝の相伴衆となるなど勢いを増し、続いて南都に多聞山城(奈良市)を築き大和国人衆ににらみを利かせました。従四位下といえば主君三好長慶(天文二十二年三月任官)と同位で、いかに三好家中における久秀の地位が高くなっていたかがわかります。同七年七月に三好長慶が没すと、もはや久秀の頭を押さえる者はいなくなりました。一説に久秀が毒殺したとも言われますが、さすがにこれは推測の域を出ていません。
久秀はこの年の五月に長慶の後を嗣いだ義継らとともに将軍義輝と弟周嵩を殺害、もう一人の弟で興福寺一乗院門主覚慶(後の足利義昭)を同院に幽閉するなど傍若無人の振る舞いを行いました。十月になって丹波の波多野晴通らが荻野(赤井)直正に応じて山城へ出陣してくると、久秀は配下の竹内下総守秀勝を山城へ派遣して撃退しますが、これを機に大和国内は騒然となりました。反松永派の大和国人衆は多聞山城包囲網を形成し反撃の様相を呈すると、久秀は山城から帰陣した秀勝をこれに備えさせています。しかし、当初久秀と組んでいた三好三人衆(三好政康・三好長逸・石成友通)と次第に対立するようになり、やがて義継も三人衆方に走ったため関係が悪化し、この月の十五日に三人衆は義継を擁して飯盛城を攻略、久秀と関係を絶ちました。
久秀に追われた筒井順慶(当時は藤勝)はこの日、布施城(奈良県葛城市)へ入りました。『多聞院日記』には「國中心替衆數多在之」(大和では心変わりをした国人衆が多くいた)と見え、この時点では久秀が優位に立っていた様子が読み取れます。
そんな中、筒井順慶は三好三人衆と組み、翌九年六月に筒井城を奪回することに成功しました。両者の戦いは激しさを増し、ついに同十年に南都で激突しました。その結果、十月十日に東大寺の大仏殿が兵火により炎上焼失するという異常事態に発展します。