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■【稲葉一鉄死去】天正十六年(1588)11月19日

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稲葉一鉄が美濃清水城で病没。享年74歳。

 稲葉一族は伊予守通富(通貞)に始まります。通富は伊予国守護河野刑部大輔通教(通直)の六男で、故あって伊予を追われ、美濃国守護土岐左京大夫成頼に遇された事が縁で、彼の妹を娶って稲葉姓に改姓し美濃に住み着いたと伝えられています。

 頑固者の最たるものとして知られた稲葉一鉄仙斎こと伊予守良通は、永正十二年(1515)に備中守通則の六男として生まれました。さて大永五年(1525)八月、美濃土岐氏に属していた稲葉通則一党は美濃牧田の戦いにて近江の浅井亮政と大激戦を演じ、父子六人全てが討死という悲劇に遭いました。当時美濃崇福寺の僧であったため難を逃れた一鉄が還俗して家を嗣ぎますが、まだ十一歳の時の出来事でした。彼は土岐頼芸に仕えて曽根城(岐阜県大垣市)の主となり、土岐氏没落後は斎藤龍興に仕えました。

 斎藤家の重臣となった一鉄は安藤守就・氏家ト全とともに「美濃三人衆」と呼ばれ、主君龍興の信頼も厚いものがありました。しかし道三、義龍と続いた後継ぎとしては龍興は明らかに役不足で、永禄七年(1564)二月には日頃龍興の言動を苦々しく思っていた竹中半兵衛重治の計略にはまり、わずか十六人の竹中勢に城を乗っ取られる醜態を演じるなど、家臣たちの信頼と結束も次第に揺らぎ始めます。

 龍興に愛想を尽かした一鉄は永禄十年、斎藤氏の本拠・稲葉山城(岐阜市)攻めを策す織田信長に内通して龍興を追い、ここに斎藤家は滅亡しました。一鉄は信長に仕え、続く姉川の戦い、朝倉征伐、長島一向一揆、加賀一向一揆など立て続けに戦功を挙げ、織田家中からもその戦巧者ぶりを認められましたが、実に彼らしいエピソードがあります。姉川合戦の際、一鉄は徳川家康軍への加勢を命じられ、徳川勢の奮戦によって信長軍は窮地を脱しました。戦後信長から功名第一と賞されますが、「この勝利は三河殿(家康)の力によるもので、それを差し置いて私が加増を受けるわけにはいかない」と頑として突っぱね、信長を苦笑させたと伝えられています。

 老齢となった一鉄は天正七年(1579)に家督を嫡子貞通に譲り、清水城(同揖斐川町)に移って隠居しました。本能寺の変の際には追放されていた安藤守就父子が北方城(同)で蜂起したため、これを討つなど働きますが、小牧・長久手の役で羽柴秀吉方の将として出陣したのを最後に一線から退き、この日清水城で没しました。

 今でも自分の意見を曲げない人を「一徹者」といいますが、この「一徹」とは稲葉一鉄の性格に由来するものです。