秀吉は二十三日に小寺(黒田)孝高の出迎えで姫路城に入ると、直ちに播磨諸将の人質を取り、十一月二十九日に赤松政範の籠もる播磨上月城の攻略に取りかかった。秀吉は十二月三日に上月城を落とすと、主家再興を悲願としていた尼子氏の旧臣・山中鹿介幸盛を入れて守らせた。鹿介は尼子氏滅亡後、京都東福寺で僧となっていた尼子誠久の子を還俗させ、孫四郎勝久と名乗らせて主君と仰ぎ出雲侵攻を行ったことがあった。一旦侵攻は果たして気勢を上げたものの月山富田城は奪えず、元亀二年(1571)八月に吉川元春に敗れて鹿介は伯耆末石城で捕らえられ、勝久は出雲侵攻の拠点・新山城を捨てて京都へと逃れていた。鹿介は程なく脱出して京都へと向かうが、有名な鹿介の「不浄口からの脱出」の話はこの時のことである。
鹿介は秀吉の配慮に喜び、勇躍して京都に潜伏している勝久を迎えに行った。これが十二月下旬のことなのだが、鹿介不在をいち早く察知した人物がいた。当時毛利方にあった、戦国期屈指の謀将・宇喜多直家である。直家はすかさず真壁彦九郎治次に五百の兵を与えて上月城を奇襲させ、何と一夜にして城を奪取する。ところが翌年正月下旬、鹿介らが一千余騎で攻め寄せるとの風聞に接した真壁は戦う前に城を捨てて逃げ出してしまい、鹿介らは無事に上月城を奪い返すという一幕があった。
直家はすぐさま彦九郎治次の弟・治時に三千の兵を与えて再度出陣させるが、鹿介の奇襲により治時は討たれ、またしても直家は煮え湯を飲まされることになった。怒った直家は上月城奪取に本腰を入れ、今度は家中主力の長船紀伊守・岡越前守ら宿将に五千の兵を与えて攻略を厳命する。さすがに三度目の攻撃は厳しかった。猛攻に耐えきれなくなった鹿介らは秀吉の了解を得て城の守りを放棄、姫路城へと退去した。直家は赤松氏の一族・上月十郎(景貞)に二千の兵を与えて上月城を守らせるが、これが二月上旬のことである。 |