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今回は悲劇のヒロインとして描かれているお市の方の嫁がれた浅井(あざい)長政様の最後です。
そして、信玄公亡き後、武田軍団と織田軍団との決戦「設楽ヶ原の戦い」をお送りします。
大河ドラマでは六平太として活躍している「忍び」の世界へもご案内します。
一豊殿もいよいよ出世の糸口を掴みましたよ!
(1)小谷攻めと長政の最後
(2)長篠の戦い
(3)一豊長浜に移る
(4)忍びの世界へご案内 |
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羽柴秀吉
→信長は午後になって小丸を攻め久政を自刃に追い込み、続いて本丸に攻撃をかけた。長政は五百の兵で懸命に防戦するが、次第に兵は討たれていった。
翌二十九日、信長は自ら京極丸に入って兵を指揮、本丸に総攻撃をかけた。長政は最後まで残った二百の兵を率いて打って出たが、その隙に秀吉や柴田勝家・前田利家・佐々成政らが本丸を落としたため進退に窮し、やむなく本丸近くの赤尾屋敷に入った。もはやどうすることも出来ず、ここに長政は浅井日向守の介錯で自刃、まだ二十九歳の生涯を終えた。
長政・久政の首は京都で獄門に晒され、また家臣を添えて密かに逃がされていた嫡男の万福丸も十月十七日に探し出して捕らえ、関ヶ原で磔刑に処されるのだが、大河ドラマではその処刑執行役が一豊に設定されている。
信長は久政・長政父子と朝倉義景の首を箔濃(はくだみ=頭蓋骨を漆と金粉で塗り固めたもの)として翌年正月の宴席で諸将に披露、これを肴に酒を呑んだという。放送ではその場面が紹介されているが、一説にはそれに酒を注いで諸将に飲ませたとも伝えられている。ここに信長は元亀年間に苦しめられた「信長包囲網」の要とも言える浅井・朝倉両氏を滅ぼし、取りあえず危機を脱した。
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天正元年(1573)八月、越前から近江へと戻った信長は直ちに小谷城総攻撃に取りかかるが、ここで木下秀吉が大いに活躍する。
二十七日の夜半、京極丸の攻略を命ぜられた秀吉は三千の兵を動員して攻めかかった。もちろん一豊主従も勇躍して従ったことであろう。先鋒は秀吉の弟・小一郎(後の秀長)と蜂須賀正勝・前野長康らである。秀吉勢は浅井長政の拠る本丸と、父久政の籠もる小丸の間に位置している京極丸に総勢三千の兵で攻めかかった。やがて京極丸を落とし長政・久政の連絡を絶つことに成功すると、翌日になって信長は長政に降伏勧告の使者・不破光治を派遣するが長政はこれを拒否、夜になって妻の市と三人の娘を秀吉の陣へ送り届けるが、これは竹中半兵衛の進言によるものと伝えられている。→
竹中半兵衛重治
秀吉によって整備された長浜城
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一豊の屋敷跡に建つ石碑 |
戦後、信長は浅井・朝倉攻めでめざましい活躍した木下藤吉郎秀吉の戦功を賞し、浅井氏の旧領である湖北三郡十二万石と小谷城を与え、一豊は近江長浜唐国で四百石を与えられた。
実は、一豊が妻千代を娶ったのもこの頃とされている。
秀吉は小谷城が峻険な山城であったことから政務を執るには不便と考え、琵琶湖東岸にあって水陸の交通の便が良い今浜の地に目を付け、やがて築城を開始する。同時に秀吉は今浜を「長浜」と改めるが、これは信長から一字をもらって名付けたものという。自身も木下藤吉郎秀吉改め羽柴筑前守秀吉と名乗るが、これも信長の重臣・丹羽長秀と柴田勝家の苗字から一字ずつ取ったとする話が有名である。大名となった秀吉は心機一転して自分の城下町造りに励み、一豊も長浜に移り住んだ。
一豊は同十三年に長浜城主となり二万石を領すことになるが、もちろん当時は後にそういう運命になることは知るよしもない。 |
天正三年(1575)五月、織田信長が鉄砲隊を駆使して武田勝頼を撃破した戦いのことを一般に「長篠の戦い」と呼んでいるが、これは厳密には「長篠城の戦い」と「設楽原(したらはら)の戦い」を合わせたもので、前者には先にご紹介した鳥居強右衛門の活躍と悲劇、後者には武田家宿将たちの壮絶な戦死というハイライトシーンがある。この戦いの起因は、武田方に属していた奥平信昌の離反に端を発したもので、武田勝頼は徳川家康の臣・大賀弥四郎の内通などもあって奥三河へ出陣、長篠城へと攻め寄せた。
天正二年(1574)五月、信玄の後を嗣いだ武田勝頼は二万五千(二万とも)の兵を率いて遠江侵攻を開始、徳川家康の属城・高天神城を落とした後、翌年五月に三河長篠城を包囲した。守将の奥平信昌は何とか踏ん張るが、兵糧も尽きかけたため家康へ援軍を求めるべく軍議を開いた。信昌は城内の者を集め、決死の覚悟で城を抜け出る勇士を募るが、城は厳重に包囲されているため脱出は容易ではなく、誰も名乗り出る者はない。しかし信昌が重ねて求めたところ、一人の家臣が進
み出て大役を買って出た。
この人物の名を鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもん・かつあき)という。
喜んだ信昌は強右衛門を使者に命じ、直ちに岡崎へと走らせた。強右衛門は夜に紛れて不浄口から城外へ脱出、非常な苦労と危険を冒しながらも上手く敵の包囲をかいくぐり、岡崎まで無我夢中で走った。無事に家康のもとにたどり着くと、そこには大軍を率いた信長の姿もあった。信長は強右衛門の決死の行動に感動し「あとはまかせよ、ゆっくり休め」と伝えるが、一刻も早く吉報を信昌に報告したかった強右衛門は聞かず、すぐに長篠へと引き返していった。
しかし、あと一歩で無事帰還というところで強右衛門は敵に発見され、捕らえられてしまう。彼は勝頼の前に引き出され、「城に向かって『援軍は来ない』と言えば命は助けてやる。さらに褒美もやろう」と持ちかけられると、渋々ながらも神妙に同意した。むろんこれは見せかけだけで、彼の本意ではない。
やがて長篠城の前に強右衛門を縛り付けた磔柱が立てられると、城内の者は固唾を呑んで状況を見守った。周囲から「さあ、援軍は来ないと言え」と催促された彼は、城に向かって大声でこう言った。
「皆、よく聞け。俺はこんなざまになったが、あと二、三日何としても踏ん張れ。援軍は必ず来る!」
勝頼を欺いた強右衛門は城衆の目の前で無惨にも処刑された。これを見ていた信昌はじめ城兵は声を上げて泣いたという。しかし彼の行動は敵にも感動を与え、武田方の落合佐平治は強右衛門の磔姿を後に旗印にしたほどであった。
信昌は大きく落胆、こうして城の運命は風前の灯火となるが、間一髪で落城の運命から逃れることになる。信長・家康連合軍が三万八千(兵数には異説あり)が勝頼の背後、長篠設楽原に着陣したのである。
十八日、信長・家康連合軍三万八千(兵数には異説あり)が長篠設楽原に着陣した。
下手をすると挟み撃ちにされてしまうため、勝頼は早速対応を協議した。
席上、赤備えの猛将として知られる山県昌景をはじめ、馬場・内藤といった譜代の宿老たちは決戦を回避するよう進言したとも伝えられるが、結局勝頼は長篠城の包囲を解き、大半の兵を西の設楽原・清井田周辺に展開して織田・徳川連合軍と真っ向から対峙した。
二十日の夜、信長は家康の重臣・酒井忠次を大将とし、金森長近らの鉄砲隊五百を加えた計四千の兵を、武田方の守る城東の鳶ヶ巣山砦へと差し向けた。酒井らの一隊は勝頼の退路を塞ぐ形となり、ここに勝頼は嫌でも一戦を交えざるを得ない形となった。信長は武田軍に対抗すべく、連子川沿いに馬防柵を結いめぐらして待ち受けていたところ、翌朝に山県昌景隊が連合軍の右翼(大久保隊)に攻撃を開始、やがて両軍が激突した。
連合軍は一説に三千挺と号する鉄砲を駆使して迎撃、武田勢は次々と倒れていった。山県昌景も壮絶な戦死を遂げ、馬場信房・内藤昌豊・真田信綱といった重臣たちも次々と戦死、勝頼は何とか戦場を脱すが、甲斐に帰り着いた軍勢は三千に満たなかったと伝えられる程の壊滅的な大敗を喫してしまう。
ちなみに放送では長浜一の腕を持つ大工・源助という人物を旭姫の夫に設定、源助は設楽原で馬防柵作りに活躍する。しかし彼は引き上げる途中に自分の作った柵がどのように使われるかを見たくて密かに戦場へ戻り、流れ矢に当たって絶命という展開となる。その後朝日姫は副田甚兵衛なる武士と再婚するが、朝日姫の夫は佐治日向守とも副田甚兵衛とも言われており、一説には前夫が佐治で後に副田と再婚したともいう。
長篠合戦の後、一豊に待望の第一子として女児が誕生する。
よね(与禰)と名付けられ可愛がられるのだが、悲しいかな天正十三年十一月、長浜を突然襲った大地震によって家屋が倒壊、与禰姫はその下敷きとなって六歳の生涯を閉じることになる。逆算すると八年生まれのはずなのだが、放送では長篠合戦後程なくという設定にしているようである。
余談だが、この地震はかなり広範囲に被害を出した模様で、同月二十七日には北陸方面起きた大地震により越中木舟城主・前田秀継夫妻が崩れた城の下敷きとなって圧死、また二十九日にも飛騨で大地震があり、白川帰雲城が倒壊して城主の内ヶ島氏理ら一族が亡くなっている。帰雲城の場合は裏山が崩れて城下一帯を土砂で埋めたと伝えられており、相当な規模のものであったことがわかる。 |
琵琶湖畔に建つ長浜城 |
天正五年は信長にとって非常に忙しい年であった。二月から三月にかけて紀州雑賀征伐を行うと、閏七月には上杉謙信が能登七尾城に攻め寄せる。折しも城主畠山義春が疫病にかかり城内で病没したため、重臣の長綱連は信長に救援を依頼した。信長は直ちに柴田勝家を総大将とし、羽柴・滝川・丹羽・佐々・前田ら四万八千の軍を八月初旬に加賀に送るのだが、そこでちょっとした事件が起こった。秀吉が勝家と仲違いし、さっさと長浜へ引き上げてしまったのである。
「さすがにこの時
は秀吉様も慌て
ましたぞ・・・。」
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秀吉が引き上げた真相は闇の中であるが、一説に勝家が秀吉を後陣に回して手柄を立てさせないようにしたからという。また謙信と一戦を交える腹づもりの勝家が慎重論を主張する秀吉に耳を貸さず、このため秀吉が怒ったからともいうが、いずれにせよ秀吉は長浜に戻り、事の顛末を聞いた信長が激怒したのは事実である。
秀吉は信長から蟄居を命ぜられるが、無為に日を過ごしているとどのような厳罰が下されるかもしれない。
そこで秀吉は竹中半兵衛の献策により、周囲が腰を抜かすような挙に出た。
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連日、城中で飲めや歌えやの宴会を続けたのである。しかしその裏には半兵衛の深い読みがあった。鳴りを静めてひっそりしていれば猜疑心の強い信長のこと、謀反の嫌疑を掛けられて一族郎党追放の憂き目を見ないとも限らない。いや、下手をすると秀吉の首が飛ぶ恐れもあったのである。ただ、秀吉には持ち合わせた天性の明るさがあり、底抜けに明るく宴会騒ぎに興じることにより、信長は「仕方のない奴だ」と苦笑して罪は軽くて済むはず、と半兵衛は踏んだのである。結果的にそれは見事に当たるのだが、加えて秀吉にとって大きな幸運が訪れた。
八月十七日に松永久秀が突如謀反を起こして信貴山城に籠もったため、信長は急遽大和方面の手配もしなければならなくなったのである。信長は直ちに秀吉を許し、久秀討伐軍への従軍を命じた。総大将は嫡男・信忠である。
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さて、放送では六平太なる甲賀(こうか)忍びが登場する。もちろん架空の人物だが、ここで甲賀忍者について少しご紹介しておきたい。
忍術の歴史は仏教とともに六世紀に伝来した兵書「孫子」に始まるという。
この世界最古かつ最高といわれる兵書に「兵は危道なり、濫(みだ)りに用う勿(なか)れ、智略は正道で王者の道である」という教えがあり、これがもとで我が国のいわゆる忍術が発生したとされる。
甲賀の中央に聳える標高664mの飯道(はんどう)山は、古くから天台宗の三大修行道場のひとつとして栄えていた。つまり多くの修験者達を抱えており、彼らはお札を手に全国を修行行脚していたことから自然と各国の情報が集まり、飯道山はその情報交換の場としても機能していた。集まってくる修験者達の中には異能の技術を持つ者も多く、彼らのうちの一部がこの里に土着して、いわゆる甲賀忍者のルーツとなったものと推測される。甲賀は近江南部の要地にあって京にも近く、近畿圏から伊勢方面への流通は甲賀を経由するため、軍事・経済の重要拠点であった。そこで、自分たちの里は自分たちで守るべく、「郡中惣」と呼ばれる独自の自治システムが発生機能していった。
↑伊賀上野城 ↑忍者部屋に見られる隠し扉
甲賀を語る上で外せないのは、長享元年(1487)の「鈎(まがり)の陣」である。
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これは当時観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が、足利幕府の命令を軽視あるいは無視しだしてきたことから、将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に行われた戦いのことをいう六角氏は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗、山中でさまざまな奇襲をかけ、また時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、さんざんに幕府軍を苦しめたという。結局義尚が陣中に没したため、足かけ三年にわたった戦いは終結して六角氏は生き残るのだが、この戦いに参加した六角氏配下の五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び、そのうち特に功績のあった二十一家を「甲賀二十一家」ともいう。そして、それぞれの家で情報収集役などを務めた人々が、いわゆる甲賀忍者である。
甲賀衆は六角氏の傘下に属しながらも「惣(そう)」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を合議制によって運営していたいう。「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、郡中惣とは五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるもので、家柄による身分差はなく全ての家々は平等に扱われたという。
地域連合惣とは「甲賀二十一家」をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるもので、同名中惣とは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされ、本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。
各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。ちなみに「忍者」という呼称は後のもので、当時は「忍(しのび)」を主に、
一例として黒はばき(陸前)・軒猿(越後)・乱波(らっぱ=相模)・透波(すっぱ=甲斐)・偸組(ねずみ=加賀)・関やぶり(肥後)・山くぐり(薩摩)など地域により様々に呼ばれていた。
甲賀五十三家筆頭格として望月氏の存在が知られており、望月出雲守の旧宅が現在甲賀流忍術屋敷として公開されているが、これは戦国期のものではなく江戸期元禄年間の建築とされている。
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