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『蜂須賀正勝伝』 〜若き秀吉躍進の立役者〜 Vol.1

 若き日の豊臣秀吉の参謀として活躍した蜂須賀小六正勝は、元は尾張国海東郡蜂須賀郷を本拠とする土豪で、知名度的には後に秀吉に仕えて活躍した竹中半兵衛重治・黒田官兵衛孝高の陰に隠れて地味なイメージがあるが、この人なくして秀吉の活躍と出世はなかったと断じても良いくらい、軍・政・外交の各方面で秀吉を補佐した有能な武将である。

 正勝は秀吉より十歳年上であり、小説などでは荒くれ男たちを束ねる夜盗の頭領として描かれることが多く、今もなお一般的にはそのように捉えられているような感を受ける。これが真実かどうかはさておき、そもそも「小六夜盗説」はどこから出てきたのであろうか。


それはおそらく、元をたどれば小瀬甫庵『太閤記』の以下の記述と思われる。

「或時信長卿老臣を呼聚(よびあつめ)評議し給ふやうは、美濃国に打越、度々雖尽狼藉、敵痛むけしきもなく、却て兵気撓み、軍勢疲て成功なし。(中略)良有て、藤吉郎を召、要害之事如何思ふぞと、密かに御談合有けるに、憚る所もなく存知寄し事を申し上けるは、当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共(よきつわものども)多く候。(中略)其中にても、武名も且々人に知られ、番頭にも宜しからんは、稲田大炊助、青山新七、同小助、蜂須賀小六後号彦右衛門、同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助等也。上下五六千に可及候」

 

 小瀬甫庵『太閤記』は寛永三年(1626)の成立で、秀吉の死後約三十年後のことである。これはいわゆる墨俣に砦を築く件の記述であるが、当時実際墨俣に砦が出来たのかどうかは別にして、「当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候」すなわち、藤吉郎自身の言葉として「この国には夜討強盗を営みとしている人々の中に優れた武士たちが多い」と見え、その中に蜂須賀小六の名が挙げられているのである。これにより正勝が夜盗の頭領として捉えられることが定着し、講談や小説などで脚色されて広まっていったのであろう。
さて、これに関して良く知られているエピソードがある。

 

 明治時代のこと、宮中での宴会に招かれた人々は、菊の御紋章の入った銀の小食器を記念に持ち帰ることが黙許されていたという。ある時、宴に招かれた侯爵蜂須賀茂韶(もちあき)が、慣例により食器をそっと懐中にしまったところ、その様子をお目にとめられた明治天皇が「やはり家柄であるなあ」とからかわれたという。これは明治帝がおそらく上記『太閤記』の内容をご存じで、蜂須賀侯に軽いジョークを飛ばされたものであろう。
つまり、その頃一般的に「小六は夜盗上がり」というイメージで広く捉えられていたことが窺える逸話である。

 もう一つ、小六正勝と秀吉の出逢いの場所と言えば「三河矢作川に架かる橋の上」というのが広く知られているが、これは明らかに誤りである。なぜなら当時、この橋はまだ出来ていなかったからである。
すなわち、若き日の秀吉が矢作川の橋上で寝入っていたところに、たまたま手下を引き連れて通りかかった夜盗の首領・小六がその頭を足で蹴ると、目を覚ました秀吉が怒って言った。
「何故無礼を働くか。俺は体こそ小さいが、お主などに辱(はずかし)めを受けるいわれはない。詫びよ」
小六が驚いてよく見ると、まだ十二・三歳の小僧だったので、その度胸に感心した小六は無礼を詫びたという話である。
この逸話は江戸時代後期、寛政の頃に出された栗原柳庵編『真書太閤記』が初出とみられるが、話として少々出来すぎている。秀吉は尾張中村の一介の農民から関白という最高位の身分に昇りつめたことは紛れもない事実だが、この部分は彼の生涯をより一層際立たせて面白く仕立てるために作り出した話と判断せざるを得ない。そしてこれが受け入れられ、後にその内容を絵で示した『絵本太閤記』が出版されるに及び(その頃には矢作川にはすでに立派な橋が架かっていた)、その頃から広く一般に浸透していったものと考えられる。
ちなみに、橋については地元岡崎に残る古記録に「天正年中の頃は船越にて御座候」、また別の記録にも「慶長五、六年の頃、初めて土橋を架けたり、川の中流に州あり、それを橋台として架けたり」と見え、当時は矢作川は舟で渡っていたことが判明している。

 甫庵『太閤記』は中には有用な記述も含まれるが、甫庵自身の想像や単なる伝説を採用したとみられる箇所も多く、全巻通じての信憑性には疑問符を付けざるを得ない書である。したがって小六正勝が夜盗だったとは断定できず、蜂須賀氏は当時一般的に全国に割拠していた土豪の一つと考えた方が良い。
蜂須賀氏は初め斯波氏に仕えたとされ、戦国時代に彦助正氏・彦左衛門正成父子の代に家名を上げたという。この彦左衛門正成の二男・正利が小六正勝の父である。正利以前の系譜には異説もあるが、ともかく正勝は大永六年(1526)、尾張国海東郡蜂須賀村(現愛知県美和町)に正利の子として生まれたのは間違いない。

 

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