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『蜂須賀正勝伝』 Vol.2

 蜂須賀小六正勝は大永六年(1526)、尾張国海東郡蜂須賀村に正利の子として生まれたが、父正利の室(安井弥兵衛女)に連れ子の甚右衛門正信(のち出家して常林と号す)があり、系譜上は二男とされるが兄を八右衛門とする記録もあり、続柄は不明とした方が良いかもしれない。
 正勝は父正利が天文二十二年に没すと蜂須賀村を出て、母(享禄六年没)の故郷丹羽郡宮後村(愛知県江南市)に移り、美濃の斎藤道三に仕えたという。その後道三が息子の義龍と戦って敗死すると美濃を去って尾張岩倉城主・織田信賢、その後犬山城主織田信清と渡り歩き、信清が当時急速に台頭してきた織田信長に攻められて尾張を追い出されると、小折(愛知県江南市)の富商・生駒家の食客となった。これが永禄元年(1557)頃のことという。正勝はやがて木曽川沿岸の土豪・川並衆を配下に組み込んで力を付けると、信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った際にも戦いに参加して活躍、信長から国中通り抜けの特権を与えられたというから、この頃には信長の配下として活動していたものと考えられる。

 さて、信長は鵜沼城(岐阜県各務原市)の大沢基康攻略を秀吉(当時は木下藤吉郎)に命じ、正勝は秀吉とともに行動した。ここから正勝と秀吉が接近することになるが、当時は信長の下で両者はほぼ同格の存在であった。正勝は精力的に秀吉に協力、秀吉は鵜沼城を調略により手に入れることに成功する。こうして信長は東美濃の一部攻略に成功するが、斎藤氏の牙城は依然として揺るがず、度々苦戦を強いられることもあった。

 これより先、信長は斎藤氏と戦う拠点を欲し、敵地である墨俣(岐阜県大垣市)の地に佐々成政や佐久間信盛に命じて砦を築かせようとしたが、ともに失敗に終わっていた。そして秀吉がその難題を引き受け、正勝の協力でついに成し遂げたのは有名な話である。いわゆる「墨俣一夜城」と呼ばれる話だが、近年ではこれは後世の捏造とする説が主流のようである。そもそも正勝と秀吉の初期の事績は前野家文書、いわゆる『武功夜話』によるところが多いのだが、藤本正行・鈴木眞哉両氏は著書『偽書『武功夜話』の研究』において、前野家文書自体を後に作られた偽書と断じている。しかし、小瀬甫庵『太閤記』(以下『甫庵太閤記』)には墨俣の名はないものの、「秀吉軽一命於敵国成要害之主事」として砦を構築する話が明記されていることから、墨俣の地に砦を構築したかどうかの詮索はさておき、秀吉が正勝や前野長康らの協力で敵地に何らかの拠点を築くことに成功し、その守将となったことは大いにあり得ることと考えても良いのではなかろうか。『甫庵太閤記』によると、時に永禄九年(1566)九月のことであった。
 そして、これを機に正勝は秀吉の与力として付けられたか、あるいは主従の杯を交わした可能性が高く、以後秀吉とともに美濃攻略に活躍することになる。

 翌十年八月、信長はついに長年の念願が叶って美濃稲葉山城攻略に成功、斎藤龍興は降伏して美濃を追い出された。この戦いに正勝は秀吉に従って大いに活躍、秀吉は一番乗りの功を挙げたという。正勝はこうして秀吉の片腕と言って良い存在となり、秀吉も正勝を信頼かつ重用して次々と戦功を挙げていった。

 その後の正勝は、どちらかというと軍事面よりも内政・外交において秀吉を大いに支えた。これは元亀元年(1570)六月、秀吉が美濃斎藤氏の旧臣で当時栗原山に隠棲していた竹中半兵衛重治の招聘に成功したことが影響しているかも知れない。半兵衛は兵法に長けた智者として知られており、主君龍興を諫めるため一時稲葉山城の乗っ取りを果たすなど大胆な行動も行える優れた人材であった。信長も半兵衛に興味を示しており、秀吉は正勝・前野長康を伴って半兵衛の寓居を何度も訪れて説得、ついに彼を幕下に付けることを得た。その際、正に『三国志』において劉備玄徳が諸葛亮孔明を、「三顧の礼」を以て招聘したのと同じドラマが演じられたと巷説は伝える。

 信長は足利義昭を奉じて上洛、義昭が室町幕府第十五代将軍位に就くと、丹羽長秀・明智光秀・中川重政らとともに秀吉を奉行に任じ、三好三人衆らの抵抗もあって政情不安定だった京都の庶政を担当させた。正勝は秀吉の代官として洛中の警備を担当、加えて数々の難題を処理しており、いかに秀吉が正勝を信頼していたかがわかる。
その後信長は越前の朝倉氏を攻めるが浅井長政の離反により失敗、命からがら京都に逃げ戻ることは有名である。その際、撤退する信長軍の殿軍(しんがり)を務めたのが秀吉で、秀吉は相当な苦労の末に見事殿軍の重責を務め上げているが(世に「金ヶ崎の退き口」という)、秀吉軍の最後尾を担当したのが正勝であった。そして信長が浅井長政を滅ぼして秀吉を長浜城主にすると、秀吉は正勝の積年の功を賞して伊勢長島に千石、近江浅井郡に六百石の計千六百石を与えて老臣筆頭の地位を与えた。時に天正二年(1574)、正勝四十九歳のことである。

 その後正勝は信長と本願寺との戦いにおいて秀吉軍の先頭に立って奮闘、子の家政共々抜群の戦功を挙げた。信長は家政の奮闘を大いに賞し、禄百五十石を与えたという。そしてこの頃信長は琵琶湖畔の安土山に大規模な築城を行っていたが、総奉行丹羽長秀の下、正勝と前野長康は石垣・掘割奉行として大いに働いたと『武功夜話』は伝えている。
 そして天正五年(1577)、信長は明智光秀・羽柴秀吉の二将を指揮官として中国侵攻を開始した。光秀は山陰方面、秀吉は山陽方面担当である。正勝は秀吉に従って最初の関門である播磨平定戦へと臨んだ。

 

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