磯野隊は勝ちに乗じて益々勢いに乗り、織田勢を次々と粉砕した。
秀吉隊も蹴散らされ、磯野はあと一歩で信長本陣というところまで迫る
が、そこで戦線に異変が起きた。
激戦の中、家康は榊原康政に命じて朝倉勢の側面を衝かせるが、これが見事に成功、動揺した朝倉勢を一気に押し返したのである。
やがて朝倉勢は敗走することになるが、その中にあって一際光彩を放った豪傑がいた。名を真柄十郎左衛門直隆という。
真柄氏は越前真柄荘(福井県武生市)を本拠とする国人衆で、古くからの朝倉氏の被官であった。直隆は一名を直元とも言い、大力無双の豪傑として知られていた。戦いの際には越前の刀匠千代鶴の作による五尺二寸もの自慢の大刀「太郎太刀(千代鶴太郎)」を振り回して暴れ回ったという(異説あり)。
彼は息子の隆基とともに従軍、直隆は大太刀を振り回して徳川勢と戦っていたが、さすがに疲れが見えだした頃、徳川方の三人の兄弟武者が立ちはだかった。長兄を向坂式部という。直隆は三人を相手にして奮闘するが、向坂兄弟は力を合わせて戦い、いずれも傷つきながらもついに直隆を討ち取った。子の隆基もまた青木一重に討たれたという。(異説あり)
徳川勢の奮戦で朝倉勢が敗走すると、浅井勢にも動揺が走った。その機会を捉えて、今度は稲葉通朝(一鉄)が浅井勢の側面を衝くと信長も正面から押し返し、さらに氏家卜全・安藤守就も側面へ回って攻撃した。浅井勢はあと一歩まで押し詰めながら三方から攻撃を受けて敗走に転じ、磯野は重囲を突破して居城の佐和山城(同彦根市)へと戻っていった。そして、今度は浅井勢の中で小さなドラマが起こる。
浅井家には、竹中半兵衛の弟・
久作(重隆)
が
「彼は聞ゆる剛の者にて、力あくまですぐれたり」
と評した猛将・遠藤喜右衛門直経がいた。
総崩れとなった浅井勢の長政本隊にいた直経は、戦前から「戦に敗れたときには、もはや生きては帰るまい。叶わずとも信長にひと太刀つけてやる」と公言していたが、その言葉通りの行動をとる。
直経は疲労困憊していたが、戦死した僚友・
三田村市左衛門の首を刀の先に突き刺して織田勢に紛れ込み、「殿はいずこにおわす、いざ首実検を」と叫びながら信長の本陣へ向かった。手柄を誇るふりをして信長に近づき、一命を捨てて斬りかかろうとしたのである。
しかし控えていた竹中久作に見破られ、組み敷かれて遂に討たれて首を取られた。たとえ彼が力を余していたとしても、信長に斬りつけることは難しかったであろう。しかし、一途な彼は自己の命を省みず、果敢にこの挙に出たのである。
こうして信長は大勝を得たが、勢いに乗って小谷城を攻めることはせず、まず横山城を包囲した。守将の大野木が開城して小谷城へ去ると、信長は木下秀吉と竹中半兵衛重治を入れて守らせた。しかし信長にとっては一難去ってまた一難、七月末になって今度は三好三人衆が摂津で挙兵、信長も天王寺から天満ノ森へと軍を進める。
そして三好勢と対峙していた九月十二日、信長にとって最大の難敵が出現した。本願寺が信長に対して宣戦布告したのである。ここに世に言う「石山合戦」が開始された。